2020/2/2

「彫刻しなくて、どうするんですか。」

僕は、先生からずいぶんとそう言われた。
ふと、まるで地中に埋められた時限爆弾が破裂するように、高橋清先生について思い出す。

先生は、戦時中、海軍兵学校に進み、終戦の年に卒業される。
その時、二十歳。
死を覚悟されていたはずだ。
「生きていることのとまどい。」に翻弄されるなか、彫刻と出逢われる。

「人間には生きる自由があると云う全身に漲るような感動と希望だった。」

青年期だった先生とその頃の僕らとは、生きる緊張感と集中が隔絶として異なっている。
先生の感じた強烈な自由は、生まれた時から自由自在に育った僕らがわかろうはずがない。

徹底した海軍のエリート教育は、先生に国際的な感覚を植え付けた。世界とつながっている海を現場とする海軍士官は、英語教育などの国際教育が成されていたが、先生が全くの異国メキシコに赴けたのも、そうした下地あってのことだろう。

僕が、先生から「学校をやめてください。」と言われた時、「僕は、学びに来ているのでやめません。もし、先生が僕を気に入らないと言われるのでしたら、先生が去るべきです。」と言った。生意気だった。
そんなことがあってからは、先生は怒るどころか、むしろ先生の方から積極的にお話して下さった。
「唐牛君、お茶でも飲みませんか。」先生が学校におられる日は、決まって研究室で、お話をうかがった。名目は、「お茶」だが、内容は難しかった。厳しかった。それは、特別講義だった。二十歳くらいの若造には、皆目分からない内容を四年間うかがった。
常に、座禅中、背中に警策を感じるような、一本の筋を当てられているような緊張感ある毎日だった。しかし、僕も分からぬことをそのままにはしなかった。喰らい付いた。必ず質問を用意した。強情だった。

「唐牛君、勉強してください。互いに分かっていることがなければ、議論も話し合うことも出来ないではないですか。例えばあなたが、ロダンの考える人を実際に見ていなくては話になりません。京都・広隆寺の菩薩半跏思惟像も見ていなくては、考えることと思惟することがどう違って表されているか、比較して話し合うことは出来ません。そうじゃありませんか。」それは、教科書や講義での「お勉強」ではなく、実際に見たり聞いたり、行動して体得することを指した。彫刻というかたちを実現させることによって真理に向かってゆくためで、試験で満点を取ることが目的ではないからだ。

先生が香川県庵治町の西山石材さんで制作されていた頃、うかがった。
夜が更けて、先生の宿泊されている部屋に布団が二組並べて敷かれていた。先生は、ずっと話されていて眠らない。制作中の高ぶりが伝わってきた。僕は先生が眠りに入られた後も、今、先生が話されていたことを牛のように反芻した。それでやっと眠りにつくことが出来た。当時僕は大きな作品に入る間ぎわで先生のお話に刺激を受けたからだ。

先生は、大分県臼杵市「マンダラの道」設置の作品「太陽」へ寄せてこう書かれている。

「石は、永遠の生命力を地にあって象徴する。いわば自然が人間に与えた大地の骨であり命である。内に命を秘めた石に人間の祈りの形を与え継ぐのが彫刻家の一生である。無限に広がる作品の外部空間と内抱空間を調和させて、生命力と人間存在の根源である太陽を象徴として創り、有と無の象徴を存在に変えている。」

この言葉は、今、今の現代には、そぐわないだろう。
しかし、僕には、日に日に、刻刻と迫ってきてならない。

彫刻家・高橋清(1925〜1996)
彫刻家・高橋清(1925〜1996)

「開かれた宇宙」高橋清1990年作・町田市国際版画美術館
「開かれた宇宙」高橋清1990年作・町田市国際版画美術館

「なんだこりゃ〜、ラーメンみたいだぞ〜❣️ラーメン❣️ラーメン❣️」
「なんだこりゃ〜、ラーメンみたいだぞ〜❣️ラーメン❣️ラーメン❣️」

高橋清・Sign
高橋清・Sign

2020/2/2” への2件のフィードバック

  1. 私も今だに高橋先生が彫刻をやらないでいる自分をいつでも見ているような気がしてなりません

    1. ありがとう😊〜、三千代さん。

      先生にとっての彫刻というのは、心底真剣なものだったと思うんだ。
      海軍兵学校に入って、しかも、先生が入学した75期っていうのは、戦況は著しく悪い状況だったから、確実に「特攻」が視野に入っていたんだろうし。死を覚悟されていたと思うんだ。

      そういうなか、二十歳の死んでいない自分の生命を何に掛けるのかっていうところでの「彫刻」だから、趣味や憧れ、興味本意で、「ちょっとやってみよう。」というのではなかったんだろうね。
      だからさ〜、金沢美大で、二十歳近辺の僕らが、いいかげんに見えるとじくじたる思いが噴出したと思うんだ。
      誰もが真剣にする必要などないとは思うけれども、もしか、自分の中のどこかに「生命を掛ける」という思いがあるならば、やらないで、この人生を終わらせるわけにはいかないと思うよ。

      あとね。「普遍性」とか、「グローバル」っていうのも、先生が、受けた教育から出てきた感覚なんだって、わかったんだ。この頃、やっぱり、ごくごく若い頃に受けた教育や感覚というのは、一生を決めるなと思います。

      僕は、あの頃、高橋先生に徹底的に叩き込まれて、しかも、あらがい続けたことは、良かったと思うんだ。そして、時代の最先端を走っておられた川俣正さんとも出逢えて、先生と川俣さん、その両極端を自分自身の中で、どうして良いのか、わからなかったということも良かったと思うんだ。

      彫刻家っていうのは、長距離ランナーだからさ〜、僕らは、もっともっともっと頑張れるはずだと思うよ。

      ありがとう😊❣️

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