小学校の同級生、永井君からのコメントに「はっ!」として、以前つくった頭像を引っ張り出して見詰める。
この像は、「お地蔵さんを。」ということで始めた時のもの。互いの距離を近づけるために一週間通って、日常の中で邪魔にならぬよう、お話をうかがったり、音楽を聴いたり、お茶を飲んだり、見るともなしに日常の表情をスケッチした。
像を目の端に入れたまま、作業を続ける。
以前、札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエで行われている「友だちをつくる」プログラムを見学させていただいたことを思い出す。観察させてもらったと言った方が正確だろう。小学五年生の子ども達が粘土で自分の前に座っている友だちをつくり始める。子ども達には、「さあ、つくるぞ〜!」と言った意気込みは感じられない。けれども、なんとなくかたちが出来てくる。やがて、なんとなくというのは、僕の感想というだけで、実は結構集中していることがわかってくる。こちらが思う以上に、子ども達は、モデルである友だちをよく見ている。耳に集中している子は、丹念に耳を作り込む。ヘヤースタイルを見ている子は、粘土で髪の毛をかたちづくるのに懸命だ。つくられた像と友だちを見比べると驚くほどそっくりなことに気が付く。
つくっている様子をじっくりと見ていると、目、鼻、口、顔の輪郭など、部分部分に集中する。今に集中している。大人の批評眼から見るといろいろあるだろうが、子ども達は、実は、自分の外の世界をよく見ているのだ。見ようと懸命なのだ。自分が生きている世界を眼を凝らし、全方位、五感六感を全開にして捉えている。僕らは、そのほんの一部を垣間見ているに過ぎない。
全開で生きる、それが生き物の特性だともいえる。
子ども達もまた、全身全霊、自分を総動員して全開で生きている。
作品とは、そういうことが噴出しているものなんだろう。
心しなければ。
「このプログラムは、絶妙のタイミングでやってるな〜。六年生になると、とたんにカッコつけ始めるからな〜。意識するんだろうね、他人をさ。子どもと大人の境目なんだろうな。」とは、40年小学校の教師をしてきた叔父の言葉だ。
何かが、僅かづつ、心の中に降り積もってゆく。
気持ちのトルクを上げてゆく。
“2020/1/8〜1/15” への2件のフィードバック
叔父さんの言葉、いいですね。だいぶ前に山麓地域のある中学校の美術の時間のこと、「絵は嫌い」と、大半の生徒たち。「理由は?」と尋ねたら、すかさず「上手く描けないから」と。「上手な絵と下手な絵って何だろうね」、小川原脩さんのデッサンと油絵を見てもらいました。デッサンは上手、油絵はなんだかわからないから下手という答えが返ってきました。小川原脩さんにその話をしたら「上手とか下手とか、そんな話するんじゃない」、怒られてしまいました。中学校からの帰り際、ある生徒が「私本当は絵が好き、いろんな線が楽しい」。ホッとしました。
矢吹さん、コメントをありがとうございます😊
僕は、去年から、自分がはっきりとプロの彫刻家で専門家であると言葉で言うようにしています。それで、改めて彫刻を通して人間の根の根の根っこに向かって考えたり、勉強を深めています。人間が、かたちにしたい思いとは、どういうことなのだろうと東北地方に磨崖仏や原発も見に行きました。そこから得たことも多かったのですが、そこから始まったことも多くて、思考と行動が進んでいます。
で、きっと、絵の上手、下手というのは、学校の成績的な都合から「写真のような」という前提あってのことなのでしょう。それで、子ども達はおもしろく感じないのでしょうね。若い頃、美術で、大学受験した経験から、特にそのことを強く感じます。大人社会は、尺度があって、そこに向けて上手下手と評価します。ですから、描写力という点において、だいたいなんらかの評価が下されます。収まりどころは知れているのですが、そこが「大人の都合」です。実は、なんでもそうで、美術だけではないようです。学校のお勉強は、記憶力やパターン 認識の能力に偏って評価されますが、これは、やっぱり大人の都合による評価基準があってのことです。ですから頭が良い悪いは、物事をよく覚えているか否かによって評価されます。で、大人は、それが正しいと言います。本当は都合が良いのでしょうね。そこではないのですが。
小学生の頃、友だちに恐竜博士の寺島くんやアインシュタイン好きの住吉くんや戦艦親分の込堂くんがいました。彼らは、本で読んだ知識はもとより、恐竜の絵も宇宙船の設計図も戦艦の絵も細部まで描き込まれていて感動的でもありました。そして、それぞれの分野で卓越していました。博物館に行ったり、テレビを見たり、専門的な講演会に行くのも当たり前でした。全方位的に向かって開いていって、自分自身で進んで深まってゆくのを目の当たりにしました。今だと「さかなクン」のようであったと思います。
子どもの頃に持っている全方位性は、誰にでもあると思いますが、大人がそれを潰して壊します。ほっといてくれないのです。子ども達がもともと持っている力とそれぞれが置かれた環境によって、それぞれの人生は大きく変わって行かざるおえません。それでも子どもが関心を示したことを止めない。全身全霊で取り組んでいるのを止めない。これはかなり重要なことだと思います。それがなんであってもどこかに広く根を伸ばして、深まって、花を咲かせ実を結びます。今、今、ゲームをやっているからといって、ゲームでダメになる子ばかりではなく、ゲームで開いた関心が全く違ったところで実を結ぶことの方が多いでしょう。
小川原脩さんがおっしゃったことには、こんな感じが含まれていたのではないだろうかと、僕は思います。
芸術の森の「友だちをつくる」というプログラムは、美術的なアプローチをとっていますが、あのプログラムの肝は、友だちという他者を自分の全身全霊を総動員して理解してみよう。というものだと思います。発案者が、そこまで考えておられたかどうかはわからないのですが。美術というのは、この世界を探究する、一つの手段だと思います。大切なのは、他の何であっても、自分の出逢った楽しみや趣味や仕事を通して自分自身とこの世界についての理解を深めることなのだと思います。
美術の良いところは、紙にえんぴつで点を置いたり、線を描いたりします。自分自身の決定でそれを行います。小さなことですが、覚悟の集積がひとつの作品として目に見えます。不満足だったら、何度でもやり直したり、何枚も描き続けたっていいのです。彫刻も同じです。粘土の粒子の塊が作品です。目で見て、触ることが出来ます。何かを実現する練習なのでしょう。もう少し覚悟がいるかもしれません。
小川原脩さんも高田緑郎さんも絵や楽曲を実現してこられました。どの線も色もかたちも、音も強弱も、全部がご自身の覚悟の塊なんだと思います。誰かがこれだと覚悟を持って決定しなくては、私達はそれらを目にも耳にも出来ていないのです。私達の感動はそのことにあるのだと思います。ゴッホの絵が何億円の価値が付くのも、やはり、一人の人間が人生をかけて実現した何かを眼の前にするからなのでしょう。莫大な価値が与えられるのは、大人の事情だけでないことと同じだと思います。
長くなってしまいました。
m(_ _)m