「全ての始まりは、よく見ることだ。
よく見ることは、よく理解することだ。」
レオナルド・ダ・ビンチの言葉だ。
私は、月寒小学校での恩師・笹川篤子先生から、この言葉を伺った。「百聞は一見に如かず、と言います。人のお話しをよく聞き。ものごとをよくよく見るのですよ。」
先生は、重ねて、こうも言われた。
「本には、たくさんの人の経験が、描かれています。だから、よく読んでください。そして、みなさんも実際にたくさんの経験をして下さい。それから、その経験について、考えて下さい。思わぬ広がりが、世界にはあります。みなさんの人生は、その広い世界にあるのですから。」第二次世界大戦を経た先生の言葉は、小学校二年生の胸にも静かに着床した。
そう言えば、よく、よく、見詰めることは、触れることに等しい。私は、自分の視線に気付いて振り返られることが、よくある。視線を感じ取れる程に見ることは、触覚に近い記憶を残す。私が身に付けた技術の大半は、教わったものでは無い。見て見て見つくすことで、我がものにしてきた。見えているものからその成り立ちをトレースするのだ。職人の世界では、それを「盗む」と言う。
見た後、実際に試す。そうすることで、見たことが、身体に根付く。見たことが、目をつぶっていても見えるくらいに、イメージし、身体が、その通りの動きをするようにトレーニングを重ねる。やがて、見たものが、確かな「もの」として、肉体に存在するようになる。
見ることは、五感六感を包み込む程の重要度を持つ。目で味い、目で聞き、目で嗅ぎ、目で触れる。そして、目で感ずる。目の端に引っかかるものは、何かの予兆である事が多い。見慣れぬ「何か」が、サインを送っているのだ。「感じ」としか言えない何か。良し悪しを問わず、私は、このサインを見逃さぬよう心掛けている。
徹底して見る。だから、手を伸ばし、実際に触れる時には、強い衝撃が伴う。見ることが、他の感覚を鋭敏にしている為だ。高まりのトルクを保ちつつ、現実の中に実現すること。それが、作品と成る。
私の仕事は、ものの本質、実態に迫ることだ。最終的に、作品としてかたちを存在させることになる。しかし、その仕事の本質は、如何に実態に迫り得るかというところにある。肉視の果てに見い出した探求の道筋。それをトレースする目が、また肉視を誘う。そうやって人類のバトンタッチが続いて行く。