触れる

「何処で覚えたの?そのテクニック。」
女性の足首に触れていた時のことだ。
「テクニック?」
無意識だった。

私は、指先で僅かに足首に触れ、くるぶしから足、かかとにぬける美しいそのかたち、皮膚と肉、骨の織り成す暖かく繊細な温もりの感触を愛しんでいた。

かかとを通り、土踏まずを抜ける。指先に繋がる稜線が、緩やかに伸びて行く。爪先から足の甲には、感触の交響がある。冷たくメタリックな爪の硬質感、皮膚の下に浮き上がる骨、その下に拡がる谷間の張り、滑らかにすねに跳ね上がる骨の結束点。手入れの行き届いた肌は、白く滑らかで、しっとりと吸い付くように柔らかく弾力がある。

たぶん、私は、記憶の深いところに、美しさと心地良さの核心を刻み付けようとしていたのだ。私には、どうも無意識にそうする癖がある。

「テクニック。」
自分で口にしてみた。
「テクニックなのか?」

乳幼児期、人は、視覚がまだ定かではない。母親の体内から出て来たばかりの赤ん坊は、まず、母親にしっかりとしがみつき、唇の感覚を頼りに母乳と温もりを求めて、必死に生きようとする。胎児の頃から聞き慣れた母親の声と心臓のリズム、時折、耳にしていた父親の声は、安心感のサインだ。眠りの中の静かな熟成を経て、徐々に人へと形作られて行く。

私たちの唇と指先には、神経が、集中しているが、乳幼児期の幸福な時間は、その感覚をより磨くことに繋がる。たっぷりと愛された子共は、感覚を開いた人になると言われる由縁になる。

乳児が、なんでも口に入れるのは、触覚と味覚、嗅覚をダイレクトに全てを感知出来るからだ。この時期に、人は、この世界をリサーチする。毒を喰らうリスクを負って、少しづつ歩みを進めるのだ。この過程が、大人への大きな一歩になる。つまづきながらも、ひとつひとつ確かめて、自分の身に付けたものだけが、人生を進めるオールになるのだ。

かつて、北海道では、よく「これ、チョシテもイイ?」と言った。「触る」ということだ。言いながら、もう触っていることもある。長ずるにつれて、私は、この言葉に、言いようの無い恥ずかしさを覚えた。方言ということもあった。しかし、言葉よりも「触れること」そのものへの幼稚とも言える無邪気さが、自分の中にあることを隠したかったのだ。

彫刻を生業とする中で、触れざるを得ない自分と触れることを誰よりも好む自分を認めざるを得なかった。正に、彫刻とは、この世界を這いずり廻って、触れ、触り、噛み、舐め、嗅ぎ、抱き締めることなのだ。乳児そのままの自分を、何よりも頼りにする仕事、それを選んだ自分自身を、なかなか受け入れることが出来なかった。理屈でこしらえた作品と言う作りものと訣別するには、深いところに隠し、恥じていた自分を大肯定するしかなかった。

「テクニック?」

ただ、触れることへの願望が、伝わっているだけなのだ。「ただ、ただ、好きだ。」という感情が、肌身を通して深く浸透して行く。万分の一の作為も無い。

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