今日(2011年1月16日月曜日pm3:00)、韓国-漢城大学校芸術大学メディアデザインコンテンツ学部教授、趙烈(Cho,Youl)先生と息子さんに、お会いした。
今月14日土曜日、北海道大学-情報基盤センターデジタルコンテンツ研究部門-野坂政司研究室主催での公開講演会「芸術とアートにおけるビジュアル・トリック」にて、先生と知り合った横谷恵二氏が、現在、「ORIGIN」展開催中のLAKURAに、お連れして下さったのだ。
先生とお話しした中で、先生は、「Beyond」という言葉を口にされた。それは、アジアのアーティストが繋がり合って、大きなムーブメントになって行きつつあるといったお話の中でだった。
私には、もう少し、大きな枠組みを与えて頂いたように思えた。私たちが、現在準備中の展覧会「DIVE」の取材を続ける中で、4万年~2万年の時間の物差しを用いて北海道の歴史を見詰めることが、地球規模の拡がりに繋がる、重要な手立てだとわかって来たからだ。
Beyondには、「ここより向こう。越えて、超えて。」の意味がある。私は、この言葉から「今、いるここよりも向こうへ、より広く、より善き方へ向かう気持ち」を表した肯定感溢れる意味を受け取り、強く惹かれた。
趙先生は、横谷氏のパノラマとデジタル表現への関心、共感を惜しみ無く表わされた。会場では、パノラマ映像をほぼ実物大で映していたから、ご自身の作品のスケール感とも響き合ったようだった。また、私の作品で鏡を使っていることへの共感も頂いた。横谷氏が、趙先生が、作品で鏡を使われていることと私の作品の通じている点を繋いで下さったのだ。
先生は、「仏教や東洋の哲学に関心がありますか?」と、質問して下さった。私は、「はい。それは、私達が、共通に持つアジアの感覚だと思います。」とお答えすると、大きくうなづかれた。
私は、過去、タイの方々と仕事を共にしていたことがある。何ヶ月も一日中、共に働く中で、心の中に共通のものがある様に思えた。言葉にせずとも通じ合う何かが確かにあった。僅かな休憩時間、狭い室内で、共にゴロリと横たわり、接していても、安心感があった。
タイは、複数の国々と国境を接し、アジアの人種の坩堝(るつぼ)と言われている。顔付きや肌の色、言葉の訛り、習慣、混血の複雑さ、食べ物の好みや味付け。様々な違いがある。それでも彼等と分かち合えているものはなんなのか?辛い仕事を共にする中で、それは、徐々にわかっていった。それは、仏教だ。一括りにするには、些か乱暴だが、やはり、仏教は、アジアで大きな枠組みを提示している。
仏教は、宇宙を生命のリフレクションとして捉えている。互いの生命が響き合い、輝き合うことで、光に満ちた宇宙となる。善き生命は、善き光を放ち、互いの相乗効果で、善きものを実現して行く。私達アジア人の中には、こうした共通の思いが、ある様に思う。それは、道教や儒教にも通底している。勿論、神道にも、共通の感覚だ。
かつて多くの人々が、北海道にやって来た道のりを、今、拡がりの方へ向かう気持ちが強まっている。この感覚の向こうに、「何か」が、見えてきた。