作品日記

やさしいこころ つよいからだ・1

最初に、お話をうかがったとき、幾人かの方達がおられた。

僕がその中に入って行くと、あらかじめどなたかが描かれたデッサンがあった。

それをつくってくれないか?ということなのだろうか?

「このデッサンを描かれた方がつくられた方が良いと思います。描かれた方は、考えに考えて、描かれたのでしょうし。それを尊重すべきかと思います。」
それは明らかにデッサンで、デザイナーが描かれたデザイン画ではないようだった。
確かに、彫刻をしている誰かが、それを描いたのだ。

そう僕が言うと、少し白けた空気になった。

「どうしたらいいのかな…、でもこれを考えた人がつくった方が絶対に良いよな…。」そう思っていると、安倍先生という方が前に出てこられて、「これは、園長先生が、亡くなる前、病院で描かれたのですが…。」一葉のメモを出された。

一段と空気は白けた。
段取りは、せっかく進んでいたのだ。

しかし、実は、そこが始まりだった。

あらかじめ用意されているものは、たいてい何処かから持って来たものであることが多い。
段取られているものは、その辺りで寄せ集めたものが多い。
あまり考えられたものではないことが多い。
正直に言おう。
ありきたりで、考えが浅い。

しかし、仕事となれば考えてみる必要もある。
デザインされたものをつくるのであれば、気持ちを造形モードに切り替えて、引き受けるか、しないかを判断すればいい。
この仕事は、どちらなのだろう?

メモが出てきたことではっきりしたのは、既に何処かにあるものであってはならないのだろうということだ。
つくりたいと思った方の生な意志がそこにあるのだから。

人は、前例があるもの、見たことのあるものを正解だと捉える傾向がある。
見たことのあるものから引っ張って来た方が遥かに楽が出来る。
見たことのないものに挑みたいと思う人はかなり少ない。
例えば、ゴッホの絵だって、ロダンの彫刻だって、始めて見た人達には、抵抗感があっただろう。
それは、その時まで、正解ではなかったのだ。
僕らが目の前にしているものは、既にゴッホやロダンが、必死に出してきたある回答だ。
見慣れているから、正解に思える。

作品ばかりではなく、どんな人も自分の仕事で出してきた回答は必死に見つけた末の結果だと思う。
その仕事に打ち込む度合いが、強ければ強いほど、必死なはずだ。
オリジナルなのだから、簡単であったはずがない。
だから、ゴッホが耳を切ったり、自殺したと聞くと、「狂っている!」と思いつつも共感する部分があるのだろう。
ゴッホのように、人生そのものを掛けていなくても、新たな仕事に挑むとき、ある勇気や覚悟めいた感情は、誰しもが感じているのではないだろうか。

何処かにあった、見たものを真似するのは、ある程度労力はいるものの、勇気や覚悟とは縁遠い。

いささか私的なことのだが、独り身になっていた僕には、きちんと筋を通した仕事をした方が良いように思えた。遠く離れた子供達に、誇れるような、言い訳無しの生き方をしようと決めていたからだ。

誰も批判するつもりはない、ただ、つくりたい、かたちにしたい、伝えたい、残したいと思った意志は、尊重したいと思った。
先ず、そこに自分を置いてみよう、少なくとも、基本はそこだと思った。
彫刻家として呼んで下さったのだ、それを全うしよう。
それがそこにあるのだから。

で、だ。
メモを見てみると、当の園長先生の御遺志であるとわかった。
その上、指示がけっこう細かい。
詳細だ。
服装や人数も決まっている。
伝えたいメッセージもある。
これは、メッセージがあるモニュメントなのだ。
設置場所も決まっているように思える。
設置場所は、現場から確認しなくてはわからないだろう。
それらを複合的、総合的に考えて、結論を導き出さねばならないように思えた。

「みなさんに、園長先生についてお話をうかがって、そこから始められた方が良いように思うのですが、いかがでしょう?」
僕は、まるで、今まさにシャーロック・ホームズが調査を始めようとするかのように立ち上がった。

いっそうその場は白けた。

つづく。

デッサン

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