やさしいこころ つよいからだ・4

当初、故人の記念のための肖像だと考えていた彫刻は、どうも、捉え方によっては全く異なったものになることを知った。

かつて、英国の美術評論家ハーバート・リードは、「彫刻とは何か」の中で、「彫刻とは、護符(お守り)か、モニュメントである。」と言われていたが、それは、西洋諸国の首長国の一方的な見解に過ぎず、もう少し幅のある捉え方が出来るように思う。

まあ、どんなこともそうであることに変わりはないのだが。

自分が前にしている機会を、一度、根本からやり直してみることで一番驚くのは自分自身だと思う。

彫刻という具体的で素朴なアプローチを通して、人間を理解しようとすることは、少なくとも僕にとっては、良かったように思う。

僕には、無限の可能性を覚えて、おもしろいのだ。

自分一人では、絶対に出来ない困難ばかりの工程も、不器用で鈍感な自分自身も、たくさんの人が加わることで、かたちに導かれてゆく。
負だと捉えていたことも、正に転化して行く瞬間があるのだ。
時間をかけ、話を聞き集めることで、今まで言語化してこなかった人間を明瞭に理解する機会になってゆく。

どうも、かたちにすることを通して、それが出来そうだ。

どちらかというと、つくるという行為は、無理矢理、形を成すことではなく、対象を理解しようとする気持ちが大切なのではないだろうか?
取り分け、個人の個性を第一義に置くことばかりを考えたり、芸術的なアプローチをひねり出そうと苦心惨憺せずとも、もしかすると、目の前に広がるのはブルーオーシャンであるかもしれない。

気持ちを入れ、手をかけ、足を使い、からだ全部を投入する。
出来る限り濃厚に思いを込める。
ぼんやりとしたかたちにピントが合ってき始め、やがて、かたちとなってゆく。
こんなアプローチもあり得るのかもしれない。

それは、オーダーを受けた作品も自分自身から始まる作品でも同様かもしれない。

少しづつ、確信が持てるようになってきた。
それを自信というのかもしれない。

古澤良次郎・川村年勝 像 〜ともに歩む〜
古澤良次郎・川村年勝 像 〜ともに歩む〜
New birth 展示風景
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