1997年12月24日クリスマス・イブ、メキシコ チャパス州、グアテマラと国境を接するある村が一掃された。当初、グアテマラのゲリラによる襲撃と報道された。数日後、使用された弾薬から、アメリカ軍の使用している銃器による襲撃であった事が判明した。
これを受けて、メキシコシティーでは、大きなデモが行なわれた。しかし、アメリカからは、一切の返答は無く、矛先を定める事の出来ないデモは、鎮静化。年明けまでには、消滅した。何事も無かったように、新しい年が明けた。この時、私は、メキシコシティーにいて、デモを目の当たりにしていた。後に、日本では、この事件について一切の報道は無かったと、聞いた。
私は、1997年6月から、翌1998年6月迄の一年間をメキシコに過ごした。この間、日本では、知り得ない世界の実情を垣間見たように思う。植民地、格差階級社会、人種差別、南北問題、東西対立、戦争…。断っておくが、私にはネガティブな事柄を並べ立てる性質は無い。ただ、事実としてそれがその様にそこにあると言う事は、現実だ。そして、先ずは、事実をそのまま、受け止める事からしか、何も始まらない。メキシコで、その事が、初めてわかった。
「警官を見たら、道を変えろ。」と言われた。「賄賂に抵抗感を持つな。」とも言われた。「両方とも、リスクを最小限に止めるための当たり前のルールだ。」と。
アドバイスは、確かなもので、警官は、私を外国人と見ると、「パスポートを見せろ。」と言った。パスポートを見せると、警官は、そのまま、ポケットにパスポートをいれた。「少し預かる。」そう言うと、目の前の道で、交通整理を始めた。
暫くすると、こちらに近付き、笑みを浮かべ、オーバーな身振りで「ここは、気に入ったか?」と尋ねてきた。「とても気にいっているよ。」と、私が、手を伸ばしパスポートを受け取る意思を示すと、「いい思い出を作れるといいな。」と、手のひらだけを腰の高さで突き出してきた。
私は、20ペソ札を出した。警官は、そのまま手を動かさない。私は、もう一枚20ペソ札を重ねた。警官は、私の手にパスポートを渡しながら、40ペソをスルリと抜き取り、「アディヨス。」と、背を向けた。
その場に立ったまま、そうかこれなのかと納得するのに暫く時間が掛かった。一つの小さな出来事が、私の目を開かせた。「ああ、そういうことなのか。」
ここは、日本ではない。
世界中が、同じではない。
私達は、この日本の表面を基準に全てを推し量ろうとする。ここでの表面を当たり前として生きている。平和、平等、平穏、平安。私達は、平らかで、リスクやアクシデントの少ない社会を作って来た。
日本は、この地球の上で、かなり理想に近い場所の一つなのではないだろうか。それを私達自身は、あまり理解していない様に思う。足りない面を見ればキリが無い。しかし、総体として、私達は、確実に理想を現実化しつつある。その事実を踏まえ、ザラつきを覚悟して、世界を直視出来ないだろうか。
よく見ると、メキシコはかなりわかりやすい社会だ。そこは、スペインの征服以来、400年間植民地であり、人種の異なり、階級の上下、貧富の格差が歴然として存在する。アメリカからの搾取があり、国境線上では、常に人の流出が絶えない。なかなかのし上がるチャンスの少ない社会だ。
極端なポジティブとネガティブが、当然の事実として目の前にある。大統領は、任期を終えると、ヨーロッパへ渡るそうだ。最終的に自国を離れることが前提の政治とは、どんなものなのか?大きな疑問符が頭に浮かばざるを得ない。
バスの運賃と主食-トルティージャの価格は、国家として最低限に設定されている。この制度によって、最下層の人々が、移動し、食べることを実現している。つまり、毎日の営みをなんとか送ることが出来るということだ。しかし、他の物との価格差、階級差が、社会的下克上をほぼ不可能にしている。
夜空の町に「カカウワテ~。」と呼び声が響くと、ピーナッツ売りのマリオがやって来たサインだ。私は、交渉事の前には、よくマリオと立ち話をし、度胸作りをした。カップ一杯10ペソのピーナッツは、少々高価だが、私には、充分な価値ある一杯だった。
彼は、言った。「俺は、子供を二人だけ作った。二人の息子は、学校に通わせている。俺の畑のピーナッツが、息子達を未来に連れて行くんだ。」ここに、確信犯がいる。なんとか下克上を果たそうとする者が、ここにも確実にいる。
残念ながら、世界は平等でも平和でもない。それを望まぬ者も確実に存在する。しかし、僅かづつであっても、そこに、にじり寄ることは出来る筈だ。
戦場カメラマン-渡部陽一氏が、テレビ番組で言っていた。「戦争で利益を得る人がいます。子供達が、そのことを知ることが、戦争を減らす可能性を増やして行くはずです。」希望はある。実像を見ている人が、それを伝えてくれている。