みちのね

2001年、黒田芸術文化交流センター・ルスツ・アート・スペースみちのね 旧・黒田小学校活用の開設あいさつに、以下のことばが記された。

みちのね・郵便受け
みちのね・郵便受け

「留寿都村黒田小学校は、1909(明治42)年に、本貫別山の麓に開校した小学校です。周辺は畑作、酪農地帯で近年の農家の離農に伴い児童数が減少し、1995(平成7)年に閉校となりました。その後の校舎は、廃校という形でしたが、2001(平成13)年末から地域の芸術やぶの交流センター「アートスペースみちのね」として活用することになりました。」
留寿都村立小学校の教師をされていた土田順子さん、柿沼忍昭さんはじめ、五人の方達が黒田小学校を活動の拠点とされた。

黒田小学校は、静岡県の黒田重兵衛氏が畑作の使用目的で、開墾の許可を得、開墾会社を設立し開墾を行なった、そのご子息達の基礎教育と農業研修のために作られたのだ。
当初、留寿都尋常高等小学校黒田農場特別教授所として現在地に指定され、本貫別教育所から昭和に入って黒田重兵衛氏の寄贈をがあり、黒田尋常小学校となり、戦後、留寿都村立黒田小学校となった。いわば、地域の開墾のモニュメント的な存在だといえる。
最初に開墾に入ったこともあるが、地名にも残っているように広大な耕作地を抱えているのが、黒田地域だといえる。
勤めておられた教員の方達にお話をうかがうと、1980年代まで、自動車なども一般的ではなく、国道まで出るのも大変だったそうだ。
それは、僕が高校生の頃のことだから、このあいだまで、苦労が続いていたことに改めて気が付く。
北海道の開拓は、つい最近まで続いていたのだ。ことによると僕の認識が低いだけで、今も続いているのかもしれない。
最後の校長先生、田中英夫先生は、年に一度はお顔を見せにやって来られて、卒業式と閉校式のスケジュールについてお話してくださる。時折、近所のお年寄りやかつて勤めいらっしゃった先生達も来られ、ひとしきりお話をされてゆく。
みなさんにとって、ここは、実に思い出深い場所なのだ。

オリジナルメンバー記念撮影 (土田順子氏・柿沼忍昭氏・他三名氏名不明)
オリジナルメンバー記念撮影

「みちのね」のみなさんが、徐々に活動の拠点を移されたことにより、「みちのね」の活用は途中中断。その時期を経て、2009年より、僕(彫刻家-唐牛幸史)が校舎建物の修復を行いつつ、彫刻の制作を行ってきた。
当初、僕が黒田小学校にうかがったとき、校内には、オコジョややちネズミ、小鳥などの小動物が入り込み、ずいぶん荒らされていた。小さな隙間を出入り口にして入り込んでいたようだ。校舎そのものにも破損箇所が多数あった。そのため、校内・外の修復作業から始めた。また共同活用を呼び掛けたが、何処からも遠方のため、どなたも来られなかった。
そんなこともあって、倶知安町の「太鼓のロクさん像」の制作を境に、個人的なアトリエとして使わせて頂いてきた。

留寿都村の村名の由来は、アイヌ語の「ル・スツ」にあり、意味は、山のふもとあるいは、道が分かれるところとあり、留寿都村を通る道の一方は、真狩村方面に羊蹄山を時計回りに回り、一方は喜茂別町方面から札幌市へとつながる反時計回りとなっている。
「みちのね」の由来は、ここからきている。
「みちのね」は、「道の根」「未知の根」「未知の音」などにも通じるため、表記は意味の広がりを持たせて、ひらかなとした。

人のいるところに物語がある。
そこに物語があるということは、日々があって、人の暮らしがあり、それを証しとしているということだ。

北海道は「歴史が無い。」と言われることが多いのだが、北海道には、北海道の人の営みがあって、それが続いている。歴史が無いのではなく、独特過ぎて、歴史だとわからないだけだということなのだろう。歴史は書かれたものや残されたもののみで語れない。

ここで、僕が感じてきたことは、僕らには僕らの歴史があるってことだ。

最後の校長先生・田中英夫氏板書(卒業式から閉校式までの一カ月のスケジュール)
最後の校長先生・田中英夫氏板書(卒業式から閉校式までの一カ月のスケジュール)

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