Cave

手形
手形

「みちのね」の入り口には、手形を掲げている。

それは、超古代とも言える時間感覚を自分の仕事に入れ込みたいという想いがあるからだ。
もう一つ言うならば、絵画や彫刻といったジャンルの分化がなされる以前に戻ろうという感覚も含んでいる。

例えば、数年前に、200万年前につくられたと推定されている石像が、イタリアで、発見されたそうだ。
この石像が、石像だと認められるとすれば、「つくる」ことの優先順位が、芸術的な創作物と道具としての石器で、重要度が逆転するかもしれない。作られた時代が、石器が作られる遥か以前のことだと思われるからだ。

この発見は、研究者が在野のためと示される数字や時代が桁違いで、他の発見と同定できないために無視されているようだ。

その石像は、アウストラロピテクスとネアンデルタールの頭部と思われる形態が、ひとつの石に互いに背中合わせに彫られている。大きさも約3mとかなり大きい。
僕は、その論文を一瞬見せて頂いただけなので、研究者の指名を記述するほど詳しくないのだが、こんなこともあるのかもしれないと思った。

アウストラロピテクスは、400万年前から200万年前にいた猿人だし、ネアンデルタール人は、30万年前までこの地上にいたそうで、旧人に分類されている。
ちなみに僕らは現生人類(ホモ・サピエンス)は、新人に分類されている。
いずれも、同じ時代に共生していた確率は、低いとされている。
端的に言うと、この石像を認めると、石像をつくるほどの交流が、猿と人間の間にあったという解釈もあり得るということになる。
それだって、今現在の僕達、現生人類(ホモ・サピエンス)の狭い認識化での判断でしかないのだけれども、おもしろいのは、常に、全体が揺らぎ続けているということだ。

現在、最古のショウベ洞窟の絵画は、約3万2000年前に、ネアンデルタール人によって描かれたとされている。
この時期、現在のような絵画や彫刻、建築などのジャンルの分化が起こっておらず、かたちや線や色、描写などの彫刻的、絵画的な表わし方を用いて特別な場所を創り出そうとしていたことだ。
描かれている動物が、リアルに描写されているのは、実際に自分達で、狩り、腑分けして食べているからだ。行動が先にあって、そのことを記録しているのだ。そして感謝しているのだろう。感謝が祈りになって行く。
ラスコー洞窟やアルタミラ洞窟は、クロマニヨン人によって描かれたようだから、1万5000年から2万年前、3万2000年前というこの時期には、徐々に、彫刻や絵画によって特別な空間を具体的な場所としてつくり込み始めたようだ。
研究によると、2000年から、3000年の時間を置いた加筆も行われたようで、これらの場所は、随分と大切な場所であったようだ。だから、洞窟につくられた特別な場所は、徐々に、教会や寺院のような「祈り」の場としての性格を持って行ったのだろう。

いずれにしても、僕ら、ホモ・サピエンス以前にそれが、既に行われているというところに、強い興味を覚える。

加えて、世界中の”Cave Art”には、手形が残されているということも興味深い。
描いたその人が、ここにいると主張しているのだ。
手形は、今でいうところの「サイン」のようなものなのかもしれない。
ショウベ洞窟では、左手に傷のある特徴深い男性が描いたようだと特定出来るそうだ。
しかも、その手形は、入り口にある。
強い個性と大きな集団意識が、矛盾無く同居しているのだ。

僕が教えて頂いた彫刻家の高橋清先生は、常に「普遍性」や「グローバル」ということを言われていたが、そんなものは、具体性を伴って存在しない。
これが普通性だ、これがグローバルだと指し示すことなど出来ない。

どちらかというと、「普遍性」とはなんだろうか?
「グローバル」とは、どういうことだろうか?と考えつつ、素材に向かって、かたちづくるといったことの大切さ、重要さについて言われていたのだろう。

「 つくる」とは、公案のような謎解きを抱えつつ、歩むということなのだろう。

みちのね

2001年、黒田芸術文化交流センター・ルスツ・アート・スペースみちのね 旧・黒田小学校活用の開設あいさつに、以下のことばが記された。

みちのね・郵便受け
みちのね・郵便受け

「留寿都村黒田小学校は、1909(明治42)年に、本貫別山の麓に開校した小学校です。周辺は畑作、酪農地帯で近年の農家の離農に伴い児童数が減少し、1995(平成7)年に閉校となりました。その後の校舎は、廃校という形でしたが、2001(平成13)年末から地域の芸術やぶの交流センター「アートスペースみちのね」として活用することになりました。」
留寿都村立小学校の教師をされていた土田順子さん、柿沼忍昭さんはじめ、五人の方達が黒田小学校を活動の拠点とされた。

黒田小学校は、静岡県の黒田重兵衛氏が畑作の使用目的で、開墾の許可を得、開墾会社を設立し開墾を行なった、そのご子息達の基礎教育と農業研修のために作られたのだ。
当初、留寿都尋常高等小学校黒田農場特別教授所として現在地に指定され、本貫別教育所から昭和に入って黒田重兵衛氏の寄贈をがあり、黒田尋常小学校となり、戦後、留寿都村立黒田小学校となった。いわば、地域の開墾のモニュメント的な存在だといえる。
最初に開墾に入ったこともあるが、地名にも残っているように広大な耕作地を抱えているのが、黒田地域だといえる。
勤めておられた教員の方達にお話をうかがうと、1980年代まで、自動車なども一般的ではなく、国道まで出るのも大変だったそうだ。
それは、僕が高校生の頃のことだから、このあいだまで、苦労が続いていたことに改めて気が付く。
北海道の開拓は、つい最近まで続いていたのだ。ことによると僕の認識が低いだけで、今も続いているのかもしれない。
最後の校長先生、田中英夫先生は、年に一度はお顔を見せにやって来られて、卒業式と閉校式のスケジュールについてお話してくださる。時折、近所のお年寄りやかつて勤めいらっしゃった先生達も来られ、ひとしきりお話をされてゆく。
みなさんにとって、ここは、実に思い出深い場所なのだ。

オリジナルメンバー記念撮影 (土田順子氏・柿沼忍昭氏・他三名氏名不明)
オリジナルメンバー記念撮影

「みちのね」のみなさんが、徐々に活動の拠点を移されたことにより、「みちのね」の活用は途中中断。その時期を経て、2009年より、僕(彫刻家-唐牛幸史)が校舎建物の修復を行いつつ、彫刻の制作を行ってきた。
当初、僕が黒田小学校にうかがったとき、校内には、オコジョややちネズミ、小鳥などの小動物が入り込み、ずいぶん荒らされていた。小さな隙間を出入り口にして入り込んでいたようだ。校舎そのものにも破損箇所が多数あった。そのため、校内・外の修復作業から始めた。また共同活用を呼び掛けたが、何処からも遠方のため、どなたも来られなかった。
そんなこともあって、倶知安町の「太鼓のロクさん像」の制作を境に、個人的なアトリエとして使わせて頂いてきた。

留寿都村の村名の由来は、アイヌ語の「ル・スツ」にあり、意味は、山のふもとあるいは、道が分かれるところとあり、留寿都村を通る道の一方は、真狩村方面に羊蹄山を時計回りに回り、一方は喜茂別町方面から札幌市へとつながる反時計回りとなっている。
「みちのね」の由来は、ここからきている。
「みちのね」は、「道の根」「未知の根」「未知の音」などにも通じるため、表記は意味の広がりを持たせて、ひらかなとした。

人のいるところに物語がある。
そこに物語があるということは、日々があって、人の暮らしがあり、それを証しとしているということだ。

北海道は「歴史が無い。」と言われることが多いのだが、北海道には、北海道の人の営みがあって、それが続いている。歴史が無いのではなく、独特過ぎて、歴史だとわからないだけだということなのだろう。歴史は書かれたものや残されたもののみで語れない。

ここで、僕が感じてきたことは、僕らには僕らの歴史があるってことだ。

最後の校長先生・田中英夫氏板書(卒業式から閉校式までの一カ月のスケジュール)
最後の校長先生・田中英夫氏板書(卒業式から閉校式までの一カ月のスケジュール)

いのちの粒子 〜 Particles of Life

何年前のことだったろう。

友人の個展で、札幌の時計台ギャラリーを訪れた時、突然、小説家の荒巻義男さんから、話しかけて頂いた。

「僕は、言語による表現は、いろいろと実験してきましたから、次に生まれ変わるときには、造形言語を研究したいんです。それも抽象をね。だから、絵が描きたい。画廊をやって、みんなのを見せてもらって、今度は、必ずそうしようと思います。」初対面で、突然言われて、しばし呆然とした。
それは、急に話しかけられたせいでもあったが、その頃、ずっと何年も「かたち」もある種の言語で、如何にすれば、その言語を確かに表すことが出来るだろうかという考えにふけっていたことも驚いた理由のひとつだった。

造形を言語だと考えると抽象や具象という形態の垣根は、全く無くなるだろうし、個々人の壁を飛び越えて、対話が出来るのではないか。実際に、現実の中に存在している性質を持つ彫刻の役割とは、実体をこの現実の中に成立させて、人間が、根源的、本質的な問題について時代も地域も越えて、語り合い、伝え合う共通の言語であるに違いない。それは遠大な無言の対話であるが。
加えて、荒巻さんは、輪廻転生のこともさらりと言われているのだ。
この短い言葉の中には、とてつもなく凝縮された内容が詰まっていた。

荒巻義男さんは、続けてこう言われた。
「どうも、生命の本質ともいうべき、魂の粒子が観察されているというのが、世界中で、ささやき始められている事実なのです。」
それに衝撃的に驚いた私は、そのとき、「いつまでも感傷に浸っていないで、しっかり彫刻に励みなさい。あなたには、あなたの取り組むべき問題があるだろう。」という声を聞く思いがした。

隣で見ていた友人は、「ずいぶんとお年だから、よくわからないことを言われてるようで〜…。」と言ってくれた。しかし、僕にとっては、問題の核心を示唆されているように思えてならなかった。

もう二十年以上もまえのことだが、もう一つのことがあった。
気がつくと荒巻さんのお話は、この方のお話とつながっている。

それは、ふとしたきっかけから、ニューヨークで、美術家の荒川修作さんとお会いする機会を得たことだ。

16歳の時に、発売されたばかりの「意味のメカニズム」という著作を見てから、著者である荒川修作さんに、お会いしたいと思い続けていた。
荒川さんは、絵画だとおっしゃっているが、図柄でも形態でもないことを表そうとしている。彫刻や絵画という美術的な表し方を通して、本質的な問題について対話をしたい。そうお考えなのではないだろうか?というのが、著作「意味のメカニズム」への僕なりの感想だった。当然、その頃、内容自体については、まだ子供の自分にとって、よく理解出来ないものばかりだったが、強烈に、それまでの美術とは、全く異なったものを示されているという感じがしていた。

お会いしたとき、荒川さんは言われていた。
「世界中の辞書から、「魂」という言葉を無くしたい。」
当時、「Sculpture Body」というテーマで、建築や都市構想をされていた荒川修作さんのお仕事は、人間の肉体と精神は、分かちがたいのだから、肉体を、極限の状況にさらすことで、精神の有り様が明確になるのではないかということのように受け取れた。建築や都市に思考が向かっておられるのは、僕らが、それを常として生きていることを指している。それは、そうすることによって、現在の生活の中に、釈迦のされた苦行体験を持ち込むということに近いのではないだろうか?。日常、住み、暮らしている中で、自分自身の「魂」の存在を顕在化、意識化しようということなのだろう。
当時、ニューヨークのナショナルギャラリーで、行われていた展覧会のタイトルが、「We decided not to die.」だから、「私達は、死なない!」というものだろう。とても強い表現になっている。だから、この言葉使いには、強いメッセージ性がある。
死なないとは、つまり、生命には魂ともいうべき、本質があって、肉体自体は滅びても、無くならないものがある。それが魂で、生命の本質だ。それは、永遠不滅で、無くなったりしない。つまり、人間は本質的には、死んだりしない。ということを言われているのだろう。

それは「魂」という、今まで確かな手掛かりの無い言葉とされいたその本質を、誰もが、当たり前に認識出来るようにしてゆこうという意欲の現れが、「世界中の辞書から、「魂」という言葉を無くしたい。」という言葉になったと思う。

時を経て、それが、今、現在、素粒子研究の進展に伴って、具体的に「粒子」として観察され始めているということを荒巻さんは言われているのだ。観測されているということは、一般化に向かう糸口が見えてきたことを示唆している。

いずれ、「魂」や「生命」そのものが、生命の本質だ。誰もがそうに決まっていると言い出す日が来るのかもしれない。

徐々に、自分の人生に示されるパズルのピースが揃ってき始めたように思う。