DIVE 1

2010年夏、テンポラリースペースでの「REPUBLIC」展、展覧中に、札幌市文化財課の熊谷直樹氏より、文化財の資料展示について意見を求められた。考える要素が充分ある様に思え、その由お伝えした。

次にお会いした折、「現在、琴似屯田兵屋の屋根改修工事をしており、マサ葺き屋根のマサを全て取り去った骨組みのみになった様を下から見上げると、すこぶる美しい。この美しさを独り占めするのは忍びない。なんとか記録して公開したいが、どうだろうか?」と、再び、意見を求められた。共感するものがあり、なんとかしたいと思った。ここを出発点として、パノラマの横谷恵二氏を加え、三人での、取材が始まった。8月半ばのことだ。

琴似屯田兵屋に行き、琴似の街をリサーチした。街は、今も開拓当初の区画整理のまま、沢山の人が住む街だった。「この街には、いつから人が住んでいるのか?」小さな疑問が生まれた。「これは、自分達の足元を見詰めるとば口になりそうだ。」深入りして行く予感が満ちて来た。

コンセプトを「DIVE」とした。自分達の足元を出来得る限り掘り下げたところから「何かが始まるのではないか?」との予感があったからだ。これまで「北海道の歴史は、明治以降の約140年である。」と言われて来た。それは、多くの場合、「歴史が無い。」と受け取られ、自らもそうだと思っていた。なんとか、この点を解決したかった。

様々な社会問題の根底には、アイデンティティーの問題がある。自らの氏子素性、出自の認識を確かに持つことが、コミュニケーションの大前提となる。これを互いに尊重し合うことが、コミュニケーションの最低限のルールだ。

寅さんは、言う。
「手前、生国と発しますは、関東です。関東、関東と言いましても、いささか広うござんす…。」人は、誰でも、世界中、一人前の人間であれば、挨拶をし、自己紹介から互いの関係を始める。

宗教学者-中沢新一氏の著書「アースダイバー」から、東京を縄文まで、掘り下げる思考にも背中を押された。これは、縄文期からの人の営みと現代の自分達の暮らしが、相通じている。そのことを地形を深く掘り下げ、意識の深いところまで降りて行くことで、見出せないかという説を示した著作だ。精神の考古学を深める氏ならではの思考だ。

NHKの番組「ブラタモリ」も参考になった。現在の街を歩く中で、そこに残る様々な文物から、気軽なぶらぶら歩きの気分で、自分達の街を面白がるといった内容だ。札幌では、時間の軸を何処までたどれば良いのか?巨大な時間のスケールを用いることが予測された。

タイトルを「琴似屯田兵屋屋根葺き替え改修工事竣工記念展示 DIVE DOCUMENT 琴似屯田兵村」とし、会場を札幌市役所ロビー。会期、2011年3月28日月曜日〜4月8日金曜日として、展示を行うことになった。展覧会実施に伴い「190万の一人の協力」をもう一つのコンセプトとした。

札幌には、現在約190万人強の人が住んでいる。これからも多くの人達が住んで行くのだろう。一人一人の力を積み重ねることで、自分達が、今感じ始めている「何か」を未来に向けて共有したいと強く思ったからだ。

BEYOND

今日(2011年1月16日月曜日pm3:00)、韓国-漢城大学校芸術大学メディアデザインコンテンツ学部教授、趙烈(Cho,Youl)先生と息子さんに、お会いした。

今月14日土曜日、北海道大学-情報基盤センターデジタルコンテンツ研究部門-野坂政司研究室主催での公開講演会「芸術とアートにおけるビジュアル・トリック」にて、先生と知り合った横谷恵二氏が、現在、「ORIGIN」展開催中のLAKURAに、お連れして下さったのだ。

先生とお話しした中で、先生は、「Beyond」という言葉を口にされた。それは、アジアのアーティストが繋がり合って、大きなムーブメントになって行きつつあるといったお話の中でだった。

私には、もう少し、大きな枠組みを与えて頂いたように思えた。私たちが、現在準備中の展覧会「DIVE」の取材を続ける中で、4万年~2万年の時間の物差しを用いて北海道の歴史を見詰めることが、地球規模の拡がりに繋がる、重要な手立てだとわかって来たからだ。

Beyondには、「ここより向こう。越えて、超えて。」の意味がある。私は、この言葉から「今、いるここよりも向こうへ、より広く、より善き方へ向かう気持ち」を表した肯定感溢れる意味を受け取り、強く惹かれた。

趙先生は、横谷氏のパノラマとデジタル表現への関心、共感を惜しみ無く表わされた。会場では、パノラマ映像をほぼ実物大で映していたから、ご自身の作品のスケール感とも響き合ったようだった。また、私の作品で鏡を使っていることへの共感も頂いた。横谷氏が、趙先生が、作品で鏡を使われていることと私の作品の通じている点を繋いで下さったのだ。

先生は、「仏教や東洋の哲学に関心がありますか?」と、質問して下さった。私は、「はい。それは、私達が、共通に持つアジアの感覚だと思います。」とお答えすると、大きくうなづかれた。

私は、過去、タイの方々と仕事を共にしていたことがある。何ヶ月も一日中、共に働く中で、心の中に共通のものがある様に思えた。言葉にせずとも通じ合う何かが確かにあった。僅かな休憩時間、狭い室内で、共にゴロリと横たわり、接していても、安心感があった。

タイは、複数の国々と国境を接し、アジアの人種の坩堝(るつぼ)と言われている。顔付きや肌の色、言葉の訛り、習慣、混血の複雑さ、食べ物の好みや味付け。様々な違いがある。それでも彼等と分かち合えているものはなんなのか?辛い仕事を共にする中で、それは、徐々にわかっていった。それは、仏教だ。一括りにするには、些か乱暴だが、やはり、仏教は、アジアで大きな枠組みを提示している。

仏教は、宇宙を生命のリフレクションとして捉えている。互いの生命が響き合い、輝き合うことで、光に満ちた宇宙となる。善き生命は、善き光を放ち、互いの相乗効果で、善きものを実現して行く。私達アジア人の中には、こうした共通の思いが、ある様に思う。それは、道教や儒教にも通底している。勿論、神道にも、共通の感覚だ。

かつて多くの人々が、北海道にやって来た道のりを、今、拡がりの方へ向かう気持ちが強まっている。この感覚の向こうに、「何か」が、見えてきた。

触れる

「何処で覚えたの?そのテクニック。」
女性の足首に触れていた時のことだ。
「テクニック?」
無意識だった。

私は、指先で僅かに足首に触れ、くるぶしから足、かかとにぬける美しいそのかたち、皮膚と肉、骨の織り成す暖かく繊細な温もりの感触を愛しんでいた。

かかとを通り、土踏まずを抜ける。指先に繋がる稜線が、緩やかに伸びて行く。爪先から足の甲には、感触の交響がある。冷たくメタリックな爪の硬質感、皮膚の下に浮き上がる骨、その下に拡がる谷間の張り、滑らかにすねに跳ね上がる骨の結束点。手入れの行き届いた肌は、白く滑らかで、しっとりと吸い付くように柔らかく弾力がある。

たぶん、私は、記憶の深いところに、美しさと心地良さの核心を刻み付けようとしていたのだ。私には、どうも無意識にそうする癖がある。

「テクニック。」
自分で口にしてみた。
「テクニックなのか?」

乳幼児期、人は、視覚がまだ定かではない。母親の体内から出て来たばかりの赤ん坊は、まず、母親にしっかりとしがみつき、唇の感覚を頼りに母乳と温もりを求めて、必死に生きようとする。胎児の頃から聞き慣れた母親の声と心臓のリズム、時折、耳にしていた父親の声は、安心感のサインだ。眠りの中の静かな熟成を経て、徐々に人へと形作られて行く。

私たちの唇と指先には、神経が、集中しているが、乳幼児期の幸福な時間は、その感覚をより磨くことに繋がる。たっぷりと愛された子共は、感覚を開いた人になると言われる由縁になる。

乳児が、なんでも口に入れるのは、触覚と味覚、嗅覚をダイレクトに全てを感知出来るからだ。この時期に、人は、この世界をリサーチする。毒を喰らうリスクを負って、少しづつ歩みを進めるのだ。この過程が、大人への大きな一歩になる。つまづきながらも、ひとつひとつ確かめて、自分の身に付けたものだけが、人生を進めるオールになるのだ。

かつて、北海道では、よく「これ、チョシテもイイ?」と言った。「触る」ということだ。言いながら、もう触っていることもある。長ずるにつれて、私は、この言葉に、言いようの無い恥ずかしさを覚えた。方言ということもあった。しかし、言葉よりも「触れること」そのものへの幼稚とも言える無邪気さが、自分の中にあることを隠したかったのだ。

彫刻を生業とする中で、触れざるを得ない自分と触れることを誰よりも好む自分を認めざるを得なかった。正に、彫刻とは、この世界を這いずり廻って、触れ、触り、噛み、舐め、嗅ぎ、抱き締めることなのだ。乳児そのままの自分を、何よりも頼りにする仕事、それを選んだ自分自身を、なかなか受け入れることが出来なかった。理屈でこしらえた作品と言う作りものと訣別するには、深いところに隠し、恥じていた自分を大肯定するしかなかった。

「テクニック?」

ただ、触れることへの願望が、伝わっているだけなのだ。「ただ、ただ、好きだ。」という感情が、肌身を通して深く浸透して行く。万分の一の作為も無い。

実像

1997年12月24日クリスマス・イブ、メキシコ チャパス州、グアテマラと国境を接するある村が一掃された。当初、グアテマラのゲリラによる襲撃と報道された。数日後、使用された弾薬から、アメリカ軍の使用している銃器による襲撃であった事が判明した。

これを受けて、メキシコシティーでは、大きなデモが行なわれた。しかし、アメリカからは、一切の返答は無く、矛先を定める事の出来ないデモは、鎮静化。年明けまでには、消滅した。何事も無かったように、新しい年が明けた。この時、私は、メキシコシティーにいて、デモを目の当たりにしていた。後に、日本では、この事件について一切の報道は無かったと、聞いた。

私は、1997年6月から、翌1998年6月迄の一年間をメキシコに過ごした。この間、日本では、知り得ない世界の実情を垣間見たように思う。植民地、格差階級社会、人種差別、南北問題、東西対立、戦争…。断っておくが、私にはネガティブな事柄を並べ立てる性質は無い。ただ、事実としてそれがその様にそこにあると言う事は、現実だ。そして、先ずは、事実をそのまま、受け止める事からしか、何も始まらない。メキシコで、その事が、初めてわかった。

「警官を見たら、道を変えろ。」と言われた。「賄賂に抵抗感を持つな。」とも言われた。「両方とも、リスクを最小限に止めるための当たり前のルールだ。」と。

アドバイスは、確かなもので、警官は、私を外国人と見ると、「パスポートを見せろ。」と言った。パスポートを見せると、警官は、そのまま、ポケットにパスポートをいれた。「少し預かる。」そう言うと、目の前の道で、交通整理を始めた。

暫くすると、こちらに近付き、笑みを浮かべ、オーバーな身振りで「ここは、気に入ったか?」と尋ねてきた。「とても気にいっているよ。」と、私が、手を伸ばしパスポートを受け取る意思を示すと、「いい思い出を作れるといいな。」と、手のひらだけを腰の高さで突き出してきた。

私は、20ペソ札を出した。警官は、そのまま手を動かさない。私は、もう一枚20ペソ札を重ねた。警官は、私の手にパスポートを渡しながら、40ペソをスルリと抜き取り、「アディヨス。」と、背を向けた。

その場に立ったまま、そうかこれなのかと納得するのに暫く時間が掛かった。一つの小さな出来事が、私の目を開かせた。「ああ、そういうことなのか。」

ここは、日本ではない。
世界中が、同じではない。

私達は、この日本の表面を基準に全てを推し量ろうとする。ここでの表面を当たり前として生きている。平和、平等、平穏、平安。私達は、平らかで、リスクやアクシデントの少ない社会を作って来た。

日本は、この地球の上で、かなり理想に近い場所の一つなのではないだろうか。それを私達自身は、あまり理解していない様に思う。足りない面を見ればキリが無い。しかし、総体として、私達は、確実に理想を現実化しつつある。その事実を踏まえ、ザラつきを覚悟して、世界を直視出来ないだろうか。

よく見ると、メキシコはかなりわかりやすい社会だ。そこは、スペインの征服以来、400年間植民地であり、人種の異なり、階級の上下、貧富の格差が歴然として存在する。アメリカからの搾取があり、国境線上では、常に人の流出が絶えない。なかなかのし上がるチャンスの少ない社会だ。

極端なポジティブとネガティブが、当然の事実として目の前にある。大統領は、任期を終えると、ヨーロッパへ渡るそうだ。最終的に自国を離れることが前提の政治とは、どんなものなのか?大きな疑問符が頭に浮かばざるを得ない。

バスの運賃と主食-トルティージャの価格は、国家として最低限に設定されている。この制度によって、最下層の人々が、移動し、食べることを実現している。つまり、毎日の営みをなんとか送ることが出来るということだ。しかし、他の物との価格差、階級差が、社会的下克上をほぼ不可能にしている。

夜空の町に「カカウワテ~。」と呼び声が響くと、ピーナッツ売りのマリオがやって来たサインだ。私は、交渉事の前には、よくマリオと立ち話をし、度胸作りをした。カップ一杯10ペソのピーナッツは、少々高価だが、私には、充分な価値ある一杯だった。

彼は、言った。「俺は、子供を二人だけ作った。二人の息子は、学校に通わせている。俺の畑のピーナッツが、息子達を未来に連れて行くんだ。」ここに、確信犯がいる。なんとか下克上を果たそうとする者が、ここにも確実にいる。

残念ながら、世界は平等でも平和でもない。それを望まぬ者も確実に存在する。しかし、僅かづつであっても、そこに、にじり寄ることは出来る筈だ。

戦場カメラマン-渡部陽一氏が、テレビ番組で言っていた。「戦争で利益を得る人がいます。子供達が、そのことを知ることが、戦争を減らす可能性を増やして行くはずです。」希望はある。実像を見ている人が、それを伝えてくれている。

原形

「これは、熊の置物の毛彫りみたいだな~。この光ってる感じは、やっぱり、熊の毛皮だよね~。」熊谷直樹氏が、言った。「あっ!そうだ。」私の頭の中でピンポン!と音が鳴った。

私の木彫の表面を両手で撫でながら、彼は、繰り返した。「僕の家にもあったよ。唐牛さんのとこにも、あったでしょう?熊が鮭を咥えている木彫りの置物。」

「そうだ。あった。」
自分の原形が、ここにある。強い共感と既視感が、重なった。
「そうか~。ふ~ん。」頷いていた。

「俺は、草原の牧草が、風にそよいで、輝いているように思う。」パノラマの横谷恵二氏は、そう言う。確かに、私の育った月寒は、札幌の酪農地域で、永遠と牧草地が続き、少年期、きらきらと雨露に煌めく若緑の草原を駆け回るのは、無上の幸福だった。

最近、強く思うことがある。
作品にどうしても、自分の個人的な体験が、現れてしまう。
どうも、そのことは、悪いことではないようだ。

吹雪の中、雪原を歩くのは、とても楽しい。それは、雪と風の織りなすかたちの饗宴が、刻々と営まれているからだ。自然が、生み出すかたちに、F1、新幹線やステルス戦闘機など最先端の形態が重なる。ゴジラや恐竜、巨大生物も蠢き出す。

屋根から下がる氷柱。
樹木や草木を覆う湿った雪。
長い冬の季節、私たちは、飽くこと無く、真っ白な造形を作り続ける。
雪の建築を作り、仲間と住み込み、丘の上でひとり雪まつりを催す。
気が付いてみると、今、自分の身に着いた感覚の深いところに、
風土の特異性が、染み込んでいる。

私のスケール感には、リミッターが無い。
ものの大きさや量に対するリミットが、無限大なのだ。
これは、北海道という土地が持つ大いなる特異性だ。

かつて、奈良-法隆寺の棟梁-西岡常一氏が言っておられた。「法隆寺を建てた先輩達と現代の建築家は、全く違う。それは、山川草木以外に何も無いところに、伽藍を構想し、実現したことだ。今は、何をつくるにも、限られた条件のなかでしか出来ない。」

また、彫刻家ミケランジェロのことを思う。イタリア-カッラーラで、石屋の親方が言っておられた。「ミケランジェロの彫刻は、素晴らしい。それは、誰もが知っている。彼が、彫刻を彫る前に、先ずこの山から、石を運び出す道作りから始めたことは、今は、誰も知らない。」

今、私たちは、出来上がったものを当たり前のように見ている。当たり前は、当たり前に出来たわけではないのだ。私は、北海道の原野に立つと、無性に可能性を覚える。前提無しの広野が、イマジネーションをそそるのだ。

自分ひとりから始めることにも恐れがない。それは、開拓の血が、私のなかにも息づいているからなのだろう。0から始める感覚と実行力。私たちは、大きなちからを、この地から与えられている。歴史と風土は、逃れようも無く、自分そのものなのだ。

何処までも、深く深く歴史と風土に身も心も投じることは、大きな宇宙に繋がることだと痛感する。その繋がりをはっきりと意識出来た時、時代も地域も突き抜けたいのちの存在として、自分を捉えられるだろう。

SIGN

15年程前、NewYorkで、ギャラリーを廻り、プレゼンテーションをしていた折、唯一オーストラリア系のギャラリーが興味を示してくれた。

「よく理解出来る。」言葉少なく、ディレクターが、共感を口にしてくれた。彼は、ギャラリーの奥から、分厚い画集を抱えて来ると、テーブルの上に開き、言った。「これは、アボリジニのドキュメントだ。知っているか?」私は、その数年前に、大阪の国立民俗学博物館での研究展示を見てアボリジニについては、多少の知識があった。

アボリジニは、オーストラリアの先住民族だ。彼らの歴史は三万年とも四万年とも言われている。彼らが、伝え残してきた文化は、図像と彫刻として現在もその生命を伝えている。それは、色とりどりのドットで、稠密に描かれている。細かな線刻もあり、かなりのリアリティを覚える。内容は、主に地図らしく、具体的に読み込めるらしい。動物の透視図のようなものもある。人や動物、植物が、特徴を逃さず表わされている。手形がそのままトレースされてもいる。

「君の作品には、彼らに通ずるものを感じる。」「アボリジニには、モンゴリアン*サインもあるようだしね。あなたにもあるんでしょう?」ちょうどギャラリーにやって来た女性も会話に加わった。彼女は、オーストラリアからやって来たばかりの画家だと言った。

「蒙古斑て言ううんだ。大人になると消えて無くなるのだけれど。環太平洋には、大昔からモンゴロイドが住んでいるようだから、アボリジニにも、何か親近感を感じるよ。」私が、女性に挨拶をしていると、ディレクターが話し始めた。「世界的に見ると、洞窟や聖地など特別な場所に絵は残されている。それらは、約二万年以上前に遡れる。描き方には、共通点も多いから、今の僕らよりも世界観には、ある共通性があったのかも知れない。」

幾分、学者肌らしいディレクターの口が滑り出した。
「手形は、大抵の壁画に残されている。描いた人。その人物が其処にいたという強い主張を感じないか?僕は、生々しいものを感じるんだ。絵の具に酸化鉄の赤色と白い泥を使う点も世界中、共通している。

絵画は、現在では、四角い画面に描かれることが当たり前になったが、初期においては岩壁に描かれるものだった。凹凸のある岩壁に描かれた絵画は、彫刻とも絵画ともジャンル分け出来ない。それは、その場が、彼らにとってとても重要な場所だということをシンプルに表している。

現代の僕らは、たいていのものをジャンル分けして扱うだろう。しかし、人類は、長い間、生きることをひとつとしてきた。毎日の生活そのものが、信仰であり、芸術であり、哲学であり、科学でもある。先史時代のARTは、僕らにそのことを教えてくれる。世界中の壁画に残る手形は、ひとりの人間が、確かにその時、そこにいたという存在のサインなのだろう。僕には、いのちの輝きが、宇宙に響いているように思えてならない。」

「現代では、ARTを装飾品としてとらえるでしょう?あるいは、ゲームかも知れない。私は、ARTは、人間のいのちの存在証明なのだと思うの。NewYorkに来て、より一層そう考えるようになった。」女性画家は、そう言って、「だから、あなたも、ここに来なさいよ。」とウィンクをして、帰った。

当時、メキシコから来ていた私には、ふたりの言葉に強い共感があった。そう言えば、そこが、深く長い旅への入口だったことを今、改めて、思い出している。

対話

ある時、イギリスの彫刻家、デビッド・ナッシュが、若い作家に質問されたそうだ。「あなたの作品は、とてもオリジナリティーに溢れていますが、それは、何故ですか?どうすればあなたのようなユニークな作品が、作れるのでしょうか?」

氏は、こう答えたそうだ。
「私は、オリジンに向かって仕事をしています。誰かと比べて、珍しいことをしようとか、奇妙なものを作ろうとは、思っていません。結果として、誰とも比べることの出来ない仕事をすることになっているのでしょう。」

この話を伺って、納得するものがあった。重ねて、私の大学時代の教授-彫刻家-高橋清先生とのことを思い出した。先生と私は、仲の良い師弟関係であったとは、言えない。しかし、これ程、毎日の対話を欠かさぬ師弟もなかったと思う。それは、毎日、濃厚な特別講義を受けていたとも言えるだろう。

私が、木彫室で作品に向かっていると、先生が、現れ、「お茶でもどうですか。唐牛君。」とお誘いがある。私は、「はい。」と答えて、先生の部屋に伺う。上等な玉露を頂き、唇を湿らせると、質問のかたちでお話しが、始まる。「ディエゴ*リベラとイサムノグチがね、殺し合いをしたんだ。知っていますか?」シケイロスから聞いたという話が導入になる。ノンアルコールで、いきなり、ギアをトップまで上げ、フルスロッルのドライビングだ。先ず、出発点からして唐突で、理解が出来ない?何処にたどり着くのか?ゴールが、皆目、想像出来ない。

お話しの内容は、主に宇宙や人間、宗教、哲学、愛の問題、世界の話題と多伎に渡り、直接的には、美術や芸術の話題はごく僅かだ。彫刻という単語は、ほぼ登場しない。登場人物も時代や国を跨がっている。現代史上の人物から先生が、直接伺ったことも多く、誰が飛び出て来るのか予測不可能だ。当然、話題は、ジャンルの枠に収まらない。

先生が言われていたことに、こんな言葉がある。
「芸術家とは、どんな人間とも対話の出来る存在だ。それは、一国の王であれ、路傍の乞食であれ、なんら変わることが無い。」先生の実体験から、飛び出て来る言葉には、受け止めがたい熱量がある。体験のスケールが違い過ぎるのだ。後年、先生が、長く住んでおられたメキシコに行き、先生の言葉のリアリティを噛み締めることになったが、それでも、想像の範疇を出ることが出来ない。

対話を重ねては、辞書をひく。図書館で、調べる。歌や曲は、レコード屋さんで、試聴させて頂く。それでもわからぬことは、頭を下げて聞いて廻る。対話の復習を欠かすと、暗闇を無灯火で疾走するようなものだ。

知識は、足で稼ぐしかない。
歩く中に、宝が輝くこともある。

東京や京都での、新旧、分野を問わぬ作品の鑑賞も欠かせない。実際に本物を見た人に、作品の甘美さ、セクシーさについて語られても、知識や理屈では到底会話が成り立たない。直接見て、触れる以外に近道など無いのだ。対話とも言えぬ対話は、在学中、ほぼ毎日続いた。

40歳以上の年齢差の師との会話が、ぎりぎりで対話になり得ていたのは、いったい何故だったのか?それは、核心に迫り、見い出そうとする共通の志あってのことだったのではないか?今は、おぼろげに、そう言える。改めて今こそ、私は、あの雪深い金沢での静かな時間に立ち帰っている。

先生はよく二つの言葉を口にされた。「普遍性」と「グローバル」だ。それは、形而上的価値観と現実の上での共通認識のフィールドを指す。いずれも、人間のエッセンスを結晶化させるべき彫刻が、何を指標に仕事を進めるか。向き合うべき方向を示唆するものだ。

私たちは、ただ、ただ原点に向かって、真摯に問いかけ、探究し、答えを見い出すしかない。そこにORIGINは、あるのか?無いのか?どんな仕事も、生きている限り続く、終わりは無い。何処までも、歩みよるしかないのだ。

肉視

「全ての始まりは、よく見ることだ。
よく見ることは、よく理解することだ。」
レオナルド・ダ・ビンチの言葉だ。

私は、月寒小学校での恩師・笹川篤子先生から、この言葉を伺った。「百聞は一見に如かず、と言います。人のお話しをよく聞き。ものごとをよくよく見るのですよ。」

先生は、重ねて、こうも言われた。
「本には、たくさんの人の経験が、描かれています。だから、よく読んでください。そして、みなさんも実際にたくさんの経験をして下さい。それから、その経験について、考えて下さい。思わぬ広がりが、世界にはあります。みなさんの人生は、その広い世界にあるのですから。」第二次世界大戦を経た先生の言葉は、小学校二年生の胸にも静かに着床した。

そう言えば、よく、よく、見詰めることは、触れることに等しい。私は、自分の視線に気付いて振り返られることが、よくある。視線を感じ取れる程に見ることは、触覚に近い記憶を残す。私が身に付けた技術の大半は、教わったものでは無い。見て見て見つくすことで、我がものにしてきた。見えているものからその成り立ちをトレースするのだ。職人の世界では、それを「盗む」と言う。

見た後、実際に試す。そうすることで、見たことが、身体に根付く。見たことが、目をつぶっていても見えるくらいに、イメージし、身体が、その通りの動きをするようにトレーニングを重ねる。やがて、見たものが、確かな「もの」として、肉体に存在するようになる。

見ることは、五感六感を包み込む程の重要度を持つ。目で味い、目で聞き、目で嗅ぎ、目で触れる。そして、目で感ずる。目の端に引っかかるものは、何かの予兆である事が多い。見慣れぬ「何か」が、サインを送っているのだ。「感じ」としか言えない何か。良し悪しを問わず、私は、このサインを見逃さぬよう心掛けている。

徹底して見る。だから、手を伸ばし、実際に触れる時には、強い衝撃が伴う。見ることが、他の感覚を鋭敏にしている為だ。高まりのトルクを保ちつつ、現実の中に実現すること。それが、作品と成る。

私の仕事は、ものの本質、実態に迫ることだ。最終的に、作品としてかたちを存在させることになる。しかし、その仕事の本質は、如何に実態に迫り得るかというところにある。肉視の果てに見い出した探求の道筋。それをトレースする目が、また肉視を誘う。そうやって人類のバトンタッチが続いて行く。