2020/1/8〜1/15

小学校の同級生、永井君からのコメントに「はっ!」として、以前つくった頭像を引っ張り出して見詰める。

この像は、「お地蔵さんを。」ということで始めた時のもの。互いの距離を近づけるために一週間通って、日常の中で邪魔にならぬよう、お話をうかがったり、音楽を聴いたり、お茶を飲んだり、見るともなしに日常の表情をスケッチした。

像を目の端に入れたまま、作業を続ける。

Oneness -“SokuMenas”
Oneness -“SokuMenas”

以前、札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエで行われている「友だちをつくる」プログラムを見学させていただいたことを思い出す。観察させてもらったと言った方が正確だろう。小学五年生の子ども達が粘土で自分の前に座っている友だちをつくり始める。子ども達には、「さあ、つくるぞ〜!」と言った意気込みは感じられない。けれども、なんとなくかたちが出来てくる。やがて、なんとなくというのは、僕の感想というだけで、実は結構集中していることがわかってくる。こちらが思う以上に、子ども達は、モデルである友だちをよく見ている。耳に集中している子は、丹念に耳を作り込む。ヘヤースタイルを見ている子は、粘土で髪の毛をかたちづくるのに懸命だ。つくられた像と友だちを見比べると驚くほどそっくりなことに気が付く。
つくっている様子をじっくりと見ていると、目、鼻、口、顔の輪郭など、部分部分に集中する。今に集中している。大人の批評眼から見るといろいろあるだろうが、子ども達は、実は、自分の外の世界をよく見ているのだ。見ようと懸命なのだ。自分が生きている世界を眼を凝らし、全方位、五感六感を全開にして捉えている。僕らは、そのほんの一部を垣間見ているに過ぎない。

全開で生きる、それが生き物の特性だともいえる。
子ども達もまた、全身全霊、自分を総動員して全開で生きている。
作品とは、そういうことが噴出しているものなんだろう。
心しなければ。

「このプログラムは、絶妙のタイミングでやってるな〜。六年生になると、とたんにカッコつけ始めるからな〜。意識するんだろうね、他人をさ。子どもと大人の境目なんだろうな。」とは、40年小学校の教師をしてきた叔父の言葉だ。

何かが、僅かづつ、心の中に降り積もってゆく。
気持ちのトルクを上げてゆく。

札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエ「友だちをつくる」
札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエ「友だちをつくる」

札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエ「友だちをつくる」
札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエ「友だちをつくる」

札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエ「友だちをつくる」
札幌芸術の森・佐藤忠良子どもアトリエ「友だちをつくる」

2020/1/5〜1/7

眠ると制作している夢を見るようになってきた。
昼夜問わずに制作をしているような感じだ。
いい具合いになってきた。

昨年十一月、東北を旅した。
太平洋側を海岸線沿いに南下し、被災地の現状を見、磨崖仏を見た。群馬で、石仏の写真家で研究者である佐藤宗太郎さんにお会いして、そこから折り返し内陸部を北上、帰り道は、あらゆる偶然が縄文に触れる旅となった。

磨崖仏の古いものは、つくられたのが1300年から1200年前にさかのぼる。だから東北圏での文化の形成と関西圏の豪華絢爛な仏教文化の形成とは、滑舌として異なる。奈良・京都は、国際国家「日本」の都として造られたが、東北では、縄文文化をベースに、仏教の宗教的な概念と形象を得た。それまで、山そのものが信仰の対象だったが、明瞭なコンセプトとフォルムを得ることで、シンプルに自然への強烈な感謝と畏怖だったものが、アニミズムと仏教が縄をなうように岩盤に彫られた。圧倒的な力あふれるそれが磨崖仏だ。それは、金銅仏として伝わった仏像が、関西圏では大仏や大伽藍となり、東北圏では木造仏や石仏になってゆく過程にも通じている。自然そのものを信仰する精神が、一木造りの木造仏となり、石仏となったのだ。

元々は、ただ神聖な「場」があっただけだ。

人間の精神が形成される過程と形象化は、「自然崇拝」という人類共通のベースを持っている。僕らは、その上に生きているのだ。

石を彫ること、木を彫ること、土をかたちづくること。
根っこを掘り下げたところに、大切なものが見えてくる。

現場に出掛けたがゆえにわかることばかりだ。

福島県南相馬市大悲山観音堂石仏
福島県南相馬市大悲山観音堂石仏

福島県南相馬市大悲山薬師堂石仏
福島県南相馬市大悲山薬師堂石仏

福島県福島市岩谷観音
福島県福島市岩谷観音

福島県福島市岩谷観音
福島県福島市岩谷観音

岩手県平泉達谷毘沙門堂「たっこくのいわや」
岩手県平泉達谷毘沙門堂「たっこくのいわや」

岩手県平泉達谷毘沙門堂
岩手県平泉達谷毘沙門堂

2019/12/25〜2020/1/3

粘土入れから取り出し、頭像にする。

一つは、オホーツクの人。「矜持」と、テーマを定めてやってきたが、訳あって制作を中断した。等身像として制作したが、全てばらして粘土入れに戻した。しかし、頭部はどうしてもばらせず、そのまま粘土入れに戻してあったのだ。久しぶりに見ると凍れて崩れかけている。見つけたなにか、ちりじりばらばらになりそうななにか、それをかきあつめる。
もう一つは、少女。幼い子供達を群像にするためにつくったものの一つ。実際には、他のものをブロンズにした。これも等身でつくったが、放って置いて乾燥した様に、なにかを覚えた。

相矛盾して居心地の悪い、気持ちの悪い、裏も表も中も外もそのまま、そのまんまに、この冬は、自分の気持ちいっぱい、正直いっぱいやってみよう。

Okhotsk -矜持
Okhotsk -矜持

kurinomi - 美生
kurinomi – 美生

Oneness - first step
Oneness – first step

ROOTS vol.2

「絵でも描いたらイイっしょ!」と母。

う〜ん、それを実現したなら、かなり、近所迷惑なことになりそうだ。否、そういうことも、有りなのかもしれない。どうも、この補修工事は、新たな始まりの始まりのようだ。加えて、屋根トタン塗装から、窓枠、外周約物に黒を塗る。きりりと引き締まり、明るさ、鮮やかさが増したようだ。5月31日木曜日、補修作業の全工程を終了した。

「明る〜い。」
スケートボードの小学生兄弟が、言ってくれる。
「優しい。」
と、自転車に乗って、近所をぐるぐる廻っている女の子も言ってくれた。
近所の子供達の評判は、なかなかだ。
「あったかい感じだね。」
母も気に入ったようだ。
「イイ色だ〜。」
と、お隣のご夫婦。
及第点のようだ。

オレンジに白を混ぜ、色味と温みを残し、「ハニーホワイト」にした。クリームのように美味しそうなお家になった。塗装は、三面をこの色に、一面をオレンジのままとし、ツートーンとすることにした。二色が出合う角が、取り分け美しい。札幌の澄んだ空気には、晴れやかでカラフルな色合いが、ピッタリなようだ。心中思うのは、着物の裏地に贅を凝らす心意気の如く、望みの色を背面に残し、志を肝に据えようということだ。

ペンキを塗り替えるという単純なことの中にも、私たち人間の本質が現れているのではないだろうか。「こんな感じがイイんだよね〜。」という軽いフィーリングの中にある感覚には、自分という個人を越えた意味が含まれてはいないだろうか。こうしたいという強い気持ち、譲ることの出来ない深い思い。それを私たちは、普段、何気ないところで何気なく表しているように思える。そのことをもう少し、はっきりと意識の上に登らせてみよう。そんなことを考え始めた。とすれば、やはり、ことは、始まったばかりなのだろう。

この三年、北海道で活動を行ってきた。幸いにして、様々な出逢いに恵まれ、連続性を持って、探究を深めることが出来、それは、今も続いている。以前金沢や京都、沖縄などに暮らした経験と引き比べ、日本というパースペクティブでものを感じ、考察することが出来た。数少ない海外経験からではあるが、もう少しこのパースペクティブを押し広げていく可能性を示唆してくれているように思える。

北海道では、剥き出しの自然が多く残っており、札幌などの都市部では、現代と古代が並列混在している例が多い。そこを頼りに、時間軸を数万年辿ることが出来る。地域的な広がりを横軸とし、時間的な深まりを縦軸として私たち人間の基盤について探究、考察出来ないだろうか。そんな思いが深まるばかりだ。

私は、「彫刻」を生業としている。ものをかたちづくることが仕事だ。思いや思考、人間の胸の内、頭の中にある「何か」をこの現実の世界に実現、存在させることが使命なのだ。ただ、国家や社会、人の暮らしの基盤を疑い、破壊、解体してゆく現代の風潮のなかで、何をリアリティを持って、かたちづくるかについては、大きな疑問を感じている。

「何が、大切なのか。」

取り分け、私たちは、大きな震災を迎えて、自らの暮らしを考え直さざるを得ない時にある。それは、分野を問わ無い全人類共通の問題なのではないだろうか。

三陸の若い漁師の言葉が、胸に残っている。「船も港も、町も家も、今まで俺たちは、みんな当たり前だと思っていた。みんな、爺さんや婆さん、そのまた爺さんや婆さんが大切に受け継いできたものだ。むかしむかしの人たちが、なんにも無いところから始めたことだ。それを俺たちがする番になったてわけだ。」

連面と続く人の営み、人類史のなかで、例え取るに足らないと思える人間一個の人生であれ、人類の大きな連なりのなかで、欠くことの出来ぬ大切な「一点一画」なのではないか。この探究には、そんな思いが強くある。

「大切なのは、何か。」

あらゆることは、その基盤の上に築かれる。
彫刻は、その端所に過ぎない。
自戒を含めて、想うばかりだ。

ROOTS vol.1

「この色で決まりなのかな〜?」
実家隣家のご主人に尋ねられた。
5月24日、am.9:26のことだ。
「はい!」
私は、そう答え、作業を続けようとした。
「ちょっと、来てくれ。」
ご主人は、言葉を重ねた。

ROOTS
ROOTS

私は、実家の外装、屋根、壁全体に渡って塗装工事を進めていた。5月19日から準備を始め、この時点で、既に4日が経過している。一人での作業ではあるが、進行状況は、良好で、24日午前の段階で家屋全体の二分の一を塗り終えていた。

この里塚の家は、私たち一家が、月寒の家を失ってから、弟が、母と暮らす為に建てた。この家も築14年を経、徐々にほころび出してきた。私に出来ることはしようと、気が付く度に、少しづつ補修を重ねてきた。しかし、全体的に補修を施して次の10年に備える必要がある時期を迎えていた。新興住宅地である近隣全域も、壁のサイディングの張り替えを済ませたばかりだった。

私もサイディングの張り替えを試算したが、材料と足場だけでも、軽く50万円を越える。この時点で、予算に見合わないことが分かった。人件費を含めると業者の出している値段もかなり厳しいことが分かる。業者の見積りも妥当な価格なのだ。作業量は、自分一人で解決する範疇を越えている。これなら、ローンを組んで、業者に頼んだ方が良い。無論、時間を掛け楽しみながらということなら話は別だ。

というわけで、私が、出来ることは、点検補修、塗装工事による壁体の保護、強化、リニューアルと結論した。母と相談して、色を決めた。普段この家にいるのは、母だから、母の好みが良いだろう。

「明るいのがイイね。」
普段、派手目なファッションの母は言う。
弟は、「なんでも構わない。」と言った。

近所一体は、グレートーンで色彩に欠ける。これまで実家もブルーグレーだった。私たちは、色味を求め、明るさと華やかさを欲した。「元気、活力の元」ということで、黄系から赤系に掛けて見比べてみた。結果、「オレンジ」を選んだ。

こういう時は、美術家を自慢出来る。カラーコーディネートから調色までなんでも来いだ。「どんな色でも来い。言うてみ〜。やってやろやないか〜。」と関西口調で啖呵を切る。多少大袈裟ではあるが、この色には、私たちの生きる意志と情熱、一族存栄の願いを込めた。様々な山谷を乗り越えて、これからもなほ未来へ、一族の繁栄を祈り、決意する意味がある。

お隣の家に入りリビングを覗くと、窓の外に「オレンジ」が立ち上がり、朝日の照り返しで、煌めいて美しい。色彩が発光して、螢光効果もあるようだ。「ツヤあり」のペンキを選んだ甲斐があった。

「家の中が、赤くてな〜…。」
「?。」

壁に当たった太陽光が、反射して赤色光で、隣家の室内が、真っ赤に染まっている。以前とは、環境が激変したようだ。お隣のご主人とは、仲が良い。素朴な性格も好ましく、普段なにかと「家のこと」について話が合う。お仕事も電線の敷設工事会社を経営されているので、ことごとくに具体的で気持ちが良い。

「ダメかい?」
「ダメではないが、困ってな〜。」奥様も私を見ている。
「ちょっと、母と相談してくるわ。」

母に状況を説明した。
残念そうではあったが、納得してくれた。
他三方の隣家の意見を聞いた。

お向かいは、気にならないようだが、「ハデだね!」という印象を持たれている。地味好みのお向かいの婦人は、あまり良く思っては、おられないようだ。

裏のご主人は、「綺麗な色、美しい!イイ!」と大絶賛。日曜大工が大好きだから、私一人で一軒丸ごと塗り替えていることから、興味津々、好意的なのだ。加えて、自邸のバックに色味が加わり、より立派に見える。悪いことなど何も無いというわけだ。

別隣は、ご夫婦共働きで昼間は、ほとんど居られないので、塗り替えていることにも気付かれていない。現時点では、そちら側までは、塗装が進んでいない。想像も出来ないご様子だ。多分、このまま完成すると、休日の午後は、かなり気になることが予想される。

改めて、様々な要素を鑑みると、此処に「何か」が蠢き出しているように思えてならない。手前勝手の好都合。きっと、私自身が、そう思いたいのだろう。自分一人の思い込みに過ぎないと頭を過ることも無いではない。それでも、直感を尊重、塗装工事を主眼としながら、考え始めたことがある。これからも、この件についての考察と進行状況をドキュメントしていこうと思う。

PANORAMA ー序としてー

2009年からの北海道での三年半の活動をまとめてみました。

私にとって、この期間は、自らの全人間としての建て直しの時間であり、また、彫刻を根本から考え直した時間でした。彫刻を進めることで、新たな出逢いがあり、前進する意欲に繋がりました。取り分け、多くの方々との協働によって、新たな創造に繋がったことは、貴重なことでした。その点から、この記録は、私個人のものではないと考えています。そして、十代に志した彫刻と自分が、何処までも一体であることを、改めて強く感じました。

ご覧頂ければ幸いです。

「社会彫刻」とドイツのアーティスト-ボイスが言った時、私たちが、築きつつある社会そのものが、人間の創造する巨大な作品であるように感じました。いわゆるオブジェクトとしての「彫刻」は、一人の手でも生み出すことが出来ます。歴史上、栄え滅んだ文明も遺されたオブジェクトを頼りに推察されます。

ただ、社会は、かたちとして残らない様々な要素が入り混じり、織り成された複雑な織物のようなものです。加えて、流動性と重層性を持ちますから、オーケストラによって奏でられる交響曲に例えるべきかもしれません。つまり、人の営む社会の諸要素が、しっかりと結び付き、役割りを果たす状況の創造が人類としての志向性だと言えます。

家族、地域、国家、国際社会と枠組みは大きく成って行きますが、根元に於いては、始まりを同じくしています。それを人類史と地球という規模で「彫刻」という捉え方によって探究してみようというのが、私の考える「彫刻」ということになりそうです。
加えるなら、オブジェクトとしての彫刻のリアリティの立ち上がりも其処に強く感じます。より一層の研鑽の必要を肝に命じるばかりです。

「PANORAMA」と言った時、私は、知覚が、全展開することを思います。

「全方位的に知覚を開く。」

私たちが、社会を創造するとは、私たち一人一人の意識を開いて、ものごとの真をしっかりと見詰めることから始まるのではないでしょうか。そうした上で、一人一人の意識が結び付き、織り成す。その時に初めて、これからの社会を「彫刻」し始めることが出来るのかもしれません。そんなふうに考え始めています。

「それは、理想だ。」と言われることもあるでしょう。しかし、その時は、「だからこそ、芸術なのだ。理想のない芸術に意味があるでしょうか。」と強く言うことになるでしょう。突破する力。其れが其処に有ると信じるからです。

今、この時代に、大きな災害を経て、尚更に思わざる負えません。

この記録は、横谷恵二氏のパノラマ映像を基調にネット上に構築したものです。私の作品の展開するなかでの特性上、空間と時間、そして人との繋がりを重視するようになってきました。具体的には、建築物の持つ空間性と歴史性、そして、人が織り成す関係性ということです。これらの複合性と重層性を如何に提示出来るか。横谷氏のパノラマは、こうした問題への最上の解決方法であるように考えています。

この資料では、横谷氏の美学とユーモアが遺憾なく発揮されています。隠された秘密が、細部に渡って配されて、宝探しの魅力もあるでしょう。また、参加された方々の個性的な魅力のオーケストレーションも感じられることでしょう。氏のパノラマ映像に最も特徴的なことは、展開する空間の中で、人が暖かく息づいていることです。じっくりと味わえる映像なのです。どうぞ、文中の写真をクリックして下さい。パノラマ映像の世界が広がっています。また、氏の「panorama journey」を検索してみて下さい。そこで、氏の施した罠を幾つ見破れるでしょうか?お楽しみに。

m(_ _)m。

DIVE 3

2010年8月末、com.TEMPORARY SPACEでの展覧「REPUBLIC」を終え、レンガの蔵「LAKURA」工事中、札幌の南方、空沼岳を目指した。北海道大学山岳部の山荘「空沼小屋(秩父宮ヒュッテ)」を見学に出掛けたのだ。

約束の待ち合わせ場所に着くと、「クニザキです。」と力強い手が差し出された。当日、私達のリードを取って下さる國崎清氏だ。「熊谷くんは、まだですか。」氏は、登山のスタートには、少々遅い時間帯だ。と言葉を重ねた。「登りに二時間、途中、15分の休憩を二回。山小屋で、休憩、昼食で二時間。下山に二時間。午後四時には、解散の予定です。水と食糧は、お持ちですね。」行動と発言に無駄が無かった。背筋が伸びた。

メンバーは、横谷恵二氏、写真家-藤倉翼氏、そして、熊谷直樹氏、私を含めた計五名。空沼岳登山口を十時に出発、國崎氏を先頭に、私達は、笹と樹木の森に分け入った。

札幌を俯瞰すると、四方を自然に囲まれた都市である事がわかる。どの方向へも一時間弱のドライブで、人家を捜すのに苦労する自然の只中に、たどり着く。海と山、川と湖。田畑と酪農の農業地帯。札幌は、豊かさに恵まれた石狩平野に抱かれている。

空沼への山道は、細くなだらかだ。前日の雨が、道を滑りやすくしているが、危惧する程ではない。蝦夷松、とど松の巨木に囲まれ始めると、正に原始の風景が、眼前に現れた思いがする。この風景が、つい百年前の「ここ」なのだ。北海道に、大陸からマンモスを追い掛け、人間が、入って約二万年。圧倒的な自然と共に暮らす私達のこの地が、独特な営みを持つことを実感する。

國崎氏が、ペースをキープしながら、隊列を気遣いつつ軽やかに歩みを進める。そのすぐ後を翼氏が、呼吸を乱すこともなく、おしゃべりを楽しみながら、続く。細身の氏は、自転車競技もしていたスポーツマンだ。加えて、写真家は、アウトドアでの行動が、必須だとのこと。普段のベルボトムにアフロヘアの氏からは、想像出来ぬ強靭さを感じる。三番手を横谷氏が歩く。パノラマ撮影の重機材を背負っての山行にもまったく動じない。その後を四番手に熊谷氏。街中と変わらぬ軽装だ。釣りで川歩きをしてきた氏は、足取りも軽やかに、足元の植物を携帯で撮影しつつ、名前を諳んじながら感嘆の声を挙げている。前日のアルコールは、まったく残っていないようだ。最後尾に唐牛が続く。

國崎氏は、絶妙なタイミングで休憩を取り、無理なく私達を導いて下さる。飴などの甘い行動食を配っては、メンバーの調子を診ているのだろう、一人一人に必ず、声をかける。熊谷氏は、休憩の度に、隊から僅かに距離を取り、心から旨そうに煙草をくゆらせる。

クライマックスの滝を左手に、水音を聞きながら、登りきると声に成らない感嘆が、目の前に広がる。水音は囁くように変わり、魚の影が、目の端を横切る。空沼の水面が、微風に煌めいている。後続のパーティーも次々と「わあ!」と声を挙げずにいられない。

空沼小屋はその畔に静かに、そして、どっしりと立っている。現在は、老朽化の為、使用されておらず、隣接地の大きな山小屋が登山者を迎えている。黒々とした空沼小屋は、丸太組みのスイス風山小屋で、1928年(昭和3年)故秩父宮殿下の下賜金によりスイス-チューリッヒ生まれの建築家マックス・ヒンデル(1887ー1963)の設計、伊藤組土建の建設により完成した。マックス・ヒンデルは、函館のトラピスチヌ修道院を設計した著名な建築家だ。

窓から中を覗くと、真っ黒に燻されて、隙間からは、燻製のような匂いがする。横谷氏は、早速、パノラマ撮影に入る。國崎氏は、早々に、昼食を済ませ、お湯を沸かし、コーヒーを入れ、茶菓子と共に私達に振る舞って下さる。翼氏は、悠然と風景を楽しみ、「パチリ。パチリ。」と時折シャッターをきる。熊谷氏は、草花観察に余念がない。それぞれが、それぞれの気分の良い時間を過ごしている。

「さー、そろそろ。」リーダーの声に、メンバーが腰を上げ始めると、横谷氏が、藪を掻いて出て来た。ゆったりと、下山に入る。帰路は、各自のペースになった。各人の間が、かなり空いている。登りと下りでは、視点が変わり、気が付く点にも変化がある。各自、距離を取りながらも、声を大きくして、自分の感想を他のメンバーに伝えようとする。チームが、生まれつつあるのだろう。

麓で「お疲れ様でした。」と挨拶をし合ったのが、丁度、四時。水も食糧も無くなり、身も軽くなっている。気だるさの入り混じった心地良さと涼しい風を受けて山行の一日を終えた。

DIVE 2

「こいつ、ファインだろう。」
私には、中森敏夫氏が言った言葉が、すぐには、理解出来なかった。
「?」
「クマガイだよ。」
「?」

札幌市中央区、北海道大学医学部のはずれを斜めに西へ入ると、すぐに中森敏夫氏主宰のcon. TEMPORARY SPACEがある。東京都-目黒区立美術館の正木基氏より突然のメールがあり、私に中森氏に会うことを勧めて下さったのは、数日前のことだった。メキシコでの私の足跡から辿って、蜘蛛の糸よりも細い線を繋いで私を発見して下さったのだ。それは、近所の道ばたを散歩中に、宇宙人に「やあ!」と挨拶された様な時空間を超えた摩訶不思議な気軽さに溢れていた。

京都にいた私は、心を決め、札幌への旅に出た。2009年春のことだ。前年秋から札幌-旭ヶ丘の山下邸の改修工事を少しづつ進めてはいたが、それは、個人的なリハビリに過ぎなかった。

「よー。カロウジ。しばらくだな。」と軽く手を上げると早速、中森氏は、時計台の鐘の音から始まる歌を聞かせて下さった。氏とは、美術家-川俣正氏のプロジェクト「テトラハウス」から、約28年ぶりの再会だった。「そう言えば、正木さんともテトラハウス以来だったな〜。」メビウスの輪が繋がる様に、繋がり難い帯が、いとも簡単に結び付いて行く。平然と予想外の景色が、目の前に広がって行く。速度が増し始める感覚があった。

「「この道」だ。アヤっていうのが歌っているんだ。この子、ツバサが気にいっているんだ。どうだ。いいだろう。」ひとしきり「この道」から近・現代についての話をされた中森氏は、時計台の花壇に地の草花を植えている男がいると話し始めた。それが熊谷直樹氏だった。中森氏は、ジャケットの下のTシャツを心底嬉しそうに示して笑った。

「熊谷が、作ってくれたんだ。ファインだろう。」そう繰り返すと、「コーヒーを入れてやりたいが、水がないんだ。汲みに行こう。」大きな水タンクを抱えて来た。一方的な始まりだったが、戸惑いはなかった。

その年の秋、十月の良く晴れた日。「横谷恵二と申します。」と名乗る人物が山下邸に現れた。髭顔に完全防寒装備の氏は、たった今、極寒の北極圏から生還した冒険家の様だった。「中森さんのところで、ツバサさんに伺って…。」横谷氏は、そう言うと、玄関先に立ったまま、突然、パノラマ映像の説明と目的を話し始めた。手渡されたカードには、「PANORAMA JOURNEY」と書かれている。氏の説明を聞いても、その時の私には、「パノラマ」というものを、皆目理解することが出来なかった。心の中に巨大な疑問符「?」が拡がった。

私は、山下邸の改修を初夏に終え、作品を設営していた。この家をよりオープンにして、可能性を引き出したいと思ったのだ。しかし、突然、持ち主の山下トヨ氏が亡くなり、家は、解体されることが決まった。横谷氏が現れたのは、そんな矢先だった。私は、フリーのパソコンをICC(インタークロスメディアセンター)に見付け出し、「PANORAMA JOURNEY」を開いた。

「ナンナンダ?コレハ?」
目眩を伴う驚きがあった。
理解を超える知覚の拡がりを強烈に覚えた。
「宇宙人が、現れた。」
携帯電話を取り、山下邸の「パノラマ」での撮影をお願いした。

時には、理屈では説明の付かない出逢いに遭遇して、整理の付け様がないまま物事が進んで行くことがある。それは、不慮の事故の様に、大きな悲劇を起こすこともある。出逢いが、善きものであるのか?悪しきものであるのか?それは、誰にもわからない。

ただ、こう思っている。
生まれた渦を止めることはすまい。この渦をぐるぐると回す棒をより大きく、強く回し続けよう。今、ここにあることの意味など、到底分かりはしないのだ。行き着く先には、誰も見たことのない風景が、広がっているはずだ。

「渦が、起こり始めた。」
そのことを実感出来ることは、極々、稀なことだ。

ACT FOR THE FUTURE

私は、未来を信じている。

多くの「大人」が、頭を振り絞って、懸命に不安を口にする。そんな言葉は、希望を未来に導きはしない。未来は、確かにある。刻々とやって来るこのひと時ひと時が、未来なのだ。

目の前を通り過ぎて行く今、この今をこそ、懸命に生きる。そのことだけが、希望をここに引き寄せる。積もり積もった後悔の山を踏みしめて堂々とその上に立つ。そこから何が見えるのか。両の目をよく見開いて見る。信ずるに値する何かが見える。それが希望だ。

アメリカの医学者ブライアン・ワイル博士の著書に健康の為に、「ニュース絶ち」を推める言葉があった。試してみると驚くほど気持ちが楽になった。

目覚めには、美味い水。
心には、善き言葉。
速やかなACT。

目標に向かって、黙々とにじり寄る人間は、常に、思考を行動に落とし込む。行動に根ざし抽出された言葉が、自分と周囲を僅かなりとも前に進める。千の失敗が、次なる僅かな半歩を誘発するかもしれないのだ。その僅かな可能性にエナジーをフォーカスする。「生きる」とは、リスクの霞を透視て、希望にレーザービームを照射することだ。

根本から、「社会」を見詰め直してACT出来ないか。そんなことを思っている。「より善き社会をそれぞれの人間が、それぞれの立場、技能、経験、知識、知恵を出し合って実現すること」を。

いわゆる、ART(音楽、文学、美術などの分野、作品と呼ばれるもの)も、人類が、共有し合える「何か」の具現化されたものだ。理想をトコトンまで、拡げて、ACTする。この現実の中に実現して行く。ジャンルと言う小さなテリトリーを、ギュギュっとひとつにして、「生きる」ことにエナジーを集約するのだ。私は、自分が「彫刻」と言っているものをそんなふうに捉えている。

どんな人間も入(はい)れる「大きなうつわ」を築けないだろうか?そういう場を具現化出来ないだろうか?私達皆が、信ずるに足る「場=社会」を私達皆の力で、生み出す。それが「創造」だ。それが、私の強い欲望だ。

ARTIST IN ALL TOGETHER.

ART IN YOU.

私達は、イマ、ココを創造しているのだ。

A DIOS

「コウジ。ビジョンだ。イメージしろ。そして、プラクティス。繰り返し練習しろ、頭と身体、全部が自然に動くように。」マヌエルは、静かに繰り返し教えてくれた。それは、人殺しの仕方だ。

メキシコはベラクルス-ハラッパ。私は、土地の名士の城塞に部屋を借りていた。私の部屋は、かつて城塞の城壁で、馬丁が住んでいたらしい。

マヌエルは、元・アメリカ海兵隊特殊部隊・SEALの隊員だったそうだ。出逢った当時、メキシコ湾上に浮かぶ海底油田コンビナートの海面下点検の仕事をしていた。深海潜水用の特殊スーツを着用して、真っ暗な海底へ一人潜行する。そんな仕事の中では、常に、希望を胸に行動する。心に灯りを燈し続けていないと、突然のパニックに襲われるそうだ。

「酒でも、女でもイイ。どんな些細なことでもイイんだ。俺には、子供達だったがな。」子供が生まれて、現職に転職したと、言葉を重ねた。軍にいた頃は、荒れ狂う大海に飛び込んで作戦行動することが日常だったそうだ。

「無限の中にダイブするのは、慣れないものだよ。自分が、ちっぽけ過ぎて、頭が、恐怖でいっぱいになる。」身長二メートル近い大男のマヌエルの口から、「恐怖」の言葉が出るとは、思いもしなかった。

「そんな時、プラクティスが、大切なんだ。大抵の人は、自分の意志で、嵐の海に飛び込まない。そんなことをしようと思わないだろう?人を傷付けたり、殺し合ったり。そんなことも考えたりしない。しかし、俺には、それが、毎日なんだ。」そう言って、マヌエルは、ビアジョッキに、ビールとテキーラをがばがばと入れた特製カクテルを手渡してくれた。

「生還の条件は、身体の大きさや知識のある無しではないんだ。技術ですらない。問題は、それをやり遂げようと行動することなんだ。アクションを止めないことだ。ビジョンを持って、鮮明にイメージする。なんとか強い意志を保とうとする。それでも、心は、挫けるだろう?そんな時、何度も練習したことを信じて、身体を動かすんだ。」ジョッキをカンと当て、飲めと即す。

「ほんの僅かな希望も忘れてはいけない。気持ちの良いことをほんの少し持っているだけで、心が静かになる。パニックが、収まる。その隙に、タッチダウンするんだ。」絶対絶命の修羅場を生き残って来た男が、ニッカリと笑ってそう言った。

マヌエルとトレーニングを始めたのは、ふとした事がきっかけだった。私の部屋から一つ置いた隣室で、大音量でロックを響かせて、テキーラを瓶ごと煽り飲んでいる男がいた。巨大な悲しみをどうすることも出来ず自分を叩きのめしている。私は、彼にそんな印象を持った。「済まんな。迷惑なのは、わかっている。」目が合う度に、大男は、そう言った。それが、彼、マヌエルだった。

そんなある日、マヌエルは、ユウジと遊んでいた。「コウジ!マヌエルをやっつけよう!」ユウジは、私とマヌエルの間に越して来たばかりの十歳の少年だ。彼は三人兄妹のまん中、母親の名前は、エヴァ。父親は、ニューヨークでスーパーマーケットを営むビジネスマンだそうだ。エヴァは、三人の男性と結婚し、それぞれの三人の子供を授かった。そして、別れた。

ユウジの父親は、日本人だとのこと。「コウジにユウジ。似ているね!」それだけで、なんだか心が触れた。「日本語が知りたいんだ。」ユウジと私は、英語とスペイン語の入り混じったスパングリッシュとも言うような摩訶不思議な会話を通し、言葉を学び合った。

泥酔のマヌエルと組み合った。弾みで、マヌエルの懐に私の身体が入った。一本背負いが決まり、ふらりとマヌエルが倒れる。私は、すかさず、袈裟がためで、ブロックした。マヌエルが、「む〜ん。」と唸ると立ち上がり、私を首にぶら下げたまま勝負が着いた。

ユウジが、ぴょんぴょんと飛び跳ね、喜んでいる。「コウジ凄いよ!凄いよ!」よほど嬉しいのか、ぴょんぴょんがやめられない。終いに、マヌエルの足に飛び付いて、三人共々芝生に転がった。

「いいか。よく覚えておけ。プラクティスだ。イメージしたことをハッキリと思い浮かべろ。そして、アクションしろ。行動し続けろ。その為に練習をするんだ。」急所や関節技を教えてくれながら、マヌエルは、こうも言う。「こんなものは、本当は必要がない。普通に暮らしていて、俺のようなプロフェッショナルに出逢うことは、まずないからな。もし出逢ったら終わりだ。まずは、出逢わぬように気を付けろ。たいていの人間は、人を傷付けたり、殺そうと思ったりしない。ただ、どうしても必要なことがあるかもしれない。そんな時の為に心掛けろ。万が一があり得ることを覚悟しろ。

常に、自分の周りを見回して、そこが何処なのか。何があるのか。確かめろ。スプーンでもペンでもイイんだ。一握りの砂粒でも埃でも良い。手に出来る物を手にしろ。何も無くても、なんとかなる。絶対に諦めるな。終わったと思ってからが、始まりだ。」

毎日のトレーニングが続いた。マヌエルは、トレーニングが終わるとユウジには、熟れた季節のマンゴー入りヨーグルト・ジュースを、自分と私には、ビールとテキーラのカクテルを大きなビアジョッキに作ってくれた。

「スペシャルだね。」
「スペチャーレだ。」

ユウジが言うとマヌエルが、返した。マンゴーシャーベットをジュウサーで撹拌したものとザク切りした果肉を混ぜ合わせた。それは、文字通り、手間を掛けたマヌエル特製のスペチャーレなヨーグルト・ジュースだった。

「ありがとう。楽しかった。」ユウジを抱き締め、私に握手をし、マヌエルは、「アディオス。(じゃあ、またな。)」と言った。僕は、ニューヨークに行って、パパの手伝いをする。僕も、ビジネスをするんだ。」ユウジは、「アディオス。」の代わりに、マヌエルに、そう告げた。マヌエルは、一ヶ月の休暇を私達と過ごして、海底油田に戻って行った。その二週間後、私もメキシコを後にした。

私達は、時折、暗闇で、道に迷う。
望んで、荒れ狂う海に、飛び込む者はいない。
不幸を生み出そうと努力する人間は、稀だ。
それでも、避けられぬことがある。
誰もが、灯りを胸にしたい。
ほんの細やかな穂の灯り、僅かな温もり。
人は、一人では、生きて行けない。

私は、時折「アディオス。」と口にする。
出逢いの始まりの為に。